見出し画像

不登校児ママをサポートする理由

核心となる動悸
心の死を予防して自殺を無くしたい

不登校と自殺


この世で万に1つの可能性もない事が
死んだ命を取り戻すこと。

それなのに人は、失うまで気づかない。

メディアから有名人の『自殺』が報道されると、
「かわいそうに」
「何があったんだろう」
「なんで気づかなかったんだろう」
関心は寄せるし、心を痛めるが、日本では毎日何十人、年間何万人も、ニュースには取り上げられない個人が、自殺によって亡くなっています。
何万人中の1人が、昨日まで当たり前のように生きていた人だということにピンとこない。
何万人中の1人が、自分にとって大切な人じゃなかっただけである事に気づかない。




私は長年、繰り返し繰り返しやってくる『希死念慮』に苦しみ、生きている人間の中で、自死を選んだ人の気持ちに限りなく近い状態を経験した。

この経験から、心の病が深刻化すると、『希死念慮』は、冷静に考えているつもりでもまとわりつくものであり抜け出す事が困難なもの、そしてその根源は『自己否定』を繰り返す事だと知りました。


自殺は誰しも『最後の最期に自分を助ける選択肢』だったんだと、私は思いたい。
極限まで苦しみ抜いて追い込まれた同士たちに、こうすれば良かったのに、ああすれば良かったのにと訴えてももう届かないし、彼らも無になり、私たちが彼らにできることも同時に無になったんだ。






だけど、先に逝った人々が命を懸けて残したことは、今生きている人には手に取って欲しい。

そんなに苦しんじゃダメだ。
そんなに苦しませちゃダメだ。

心が死んでいく事への共感力といったらいいのか、そんなことばかり考えてきた。





私の希死念慮が成仏したきっかけ

紛れもなく2人の娘が不登校になった事でした。



私の年月よりも遥かに短いし、私が経験したことより遥かに小さいかもしれない。けれど娘たちが抱えた苦しみの種類は、私のそれともの凄く似ていた。

生きづらい社会の縮図が『学校』であり、ありのままの自分を受け入れてくれる場所が『家庭』である。

この2箇所を行ったり来たりしながら、徐々に他人との距離感や立ち振る舞いを調節して大人になり、社会に溶け込んでいくはずが、まだまだ経験も価値観も未熟な子供が、

「学校くらい行くべきだ」
「もう○年生なんだからこれができなければ」

など、学校からも親からも、大人の話す『基準』を刷り込まれる。同級生さえも、その『基準』でものを言い出す。
そしていよいよ、自分自身も『自分はダメな人間なんだ』と、自らを否定していく状態になる。
また、『基準』におさまる子供でも、その社会の縮図に、監視と評価と失敗を許されない空気を肌で感じて、足がすくんでしまう事も少なくない。


私は長い年月、誰かに大切にされることは無い価値のない人間なんだと思い込んでいて、人生でハッピーなことが起きても、癖や性質のようにネガティブに思考が傾いてしまう。いわゆるメンヘラでした。

それまでは、普通の人と思われたかった。他人の顔色を伺い、その場の雰囲気に合わせて様々なキャラクターになりきり、自分の気持ちは押し殺す。友情が深くなったり恋愛になると、相手に依存して、めんどくさいタイプのクレクレちゃん。些細なことでも自己肯定感が急降下し、奴隷思考モードに突入し、自分はやっぱりこうゆう人間なんだ、生きていちゃダメだ…の希死念慮無限ループ。「自分がこうなったのは幼少期の虐めと、親の愛情を感じなかったせいだ」のアダルトチルドレン。

そんな私が娘たちの経験から学び、気づきを得ました。
少しずつ少しずつ避けてきた階段を登るように、自分の人生を自分のものとして歩きだしました。
それは今まであったものを手放して、孤独感もあるけれど、これって不登校ケアに似ていると思うんです。


多くの人達がおめでとうと言って祝ってくれる子供の入学式や進級をはじめ、多くの人が「普通」と認識している「成長」を微笑ましく喜ぶその過程が、子供の笑顔を奪っていくようなものであった場合、私たちは今まで知っていた『普通』を一度手放さなければなりません。


【過剰適応】母編

母子手帳に記入する成長曲線と睨めっこしては、普通に成長してると安堵する。完全母乳信者と話すと劣等感を感じる、帝王切開だと子供への愛情が薄くなるなんて言われて自分を責めたり…お母さんってそんなことばっかり。
でも、時代は変わり、母乳を促進する方法や、成分の良い粉ミルクが手に入るようになったし、医療の進歩で子供に出逢えるわけだし、血が繋がってなくても本当の親子以上の愛情を育む人だっているんです。

心の問題は現象ではなく、他人の意見や、昔からある常識を鵜呑みにして、自分を責めたり、子供の成長に過剰な不安や過剰な期待を抱いて、親子で病んでいくことです。

未熟でOK
途中でOK
今この瞬間ありのままでOK
そのことを知っていて受け入れる事が重要である。


お母さん自身が変わる必要がある理由

不登校の話題となるとよく言われるのが、「お母さんが笑顔で過ごさなきゃ」ですね。
その言葉で落ち込む人も多いのですが、理由を掘り下げてみたことはありますか?


・サポートと理解
お母さんが子供の状況を理解しサポートすることで、子供は安心感を得られます。
・コミュニケーション
お母さんが適切なコミュニケーションを取ることで、子供との信頼関係が築けます。子供は自分の気持ちや困難を話しやすくなります。
・感情的なサポート
お母さんが感情的なサポートを提供し、心の健康を考慮することが大切です。
・連携と専門家の協力
お母さんが子供を理解する事で、子供のニーズに合わせたサポートを選択し、連携する事ができます。

ざっとこんな感じですが、私が今回お伝えしたいのは以下のことです。

不登校になる子供の多くの場合『過剰適応』があります。過剰適応してしまう子供は人の感情に敏感で、繊細な体質である傾向があります。そんな子供たちには親の言っていることが本心なのかどうか、真理が簡単に伝わってしまうのです。

子供を信じて待つのがいいと見聞きしたから、借り物の振る舞いでただ見守っていても、
「学校に行けないなんてこの子は大丈夫だろうか。今のままではこの子はダメだ」という、
親の不安とジャッジは伝わってしまいます。


子供が産まれてから、いや、産まれる前から、それまで1人の女性だったはずなのに、ひとつの命の責任が降りかかった瞬間から、幸せな事ばかりではなかったですよね。
24時間、一番近くで命と向き合ってきたお母さん、
24時間、他人のジャッジに敏感だったお母さん。
だからこそ、一番早くお子さんのSOSに気づいて助けることができるんだと思っています。



自殺予防なんて成果は目に見えません。
死ぬまで気づきません。
生きていることが奇跡なんてことは。


お母さん適任の役割は、産んだ時から、『命を守る』こと、一点集中。
『命を守る』とは『心の健康を守る』と同じことです。

だけど、それに集中するにはお母さん自身が受ける世間のジャッジを避けて通ることはできないのです。

「こうなったのは親のせい」という呪いの言葉に支配されていませんか?

私自身、この時ばかりは希死念慮がピークに達し自殺未遂の未遂をしたことがあります。

だからです。

だから、お母さんのそばでサポートするという考えになりました。



過剰適応しているのは、お母さん自身であり、それが子供に連動することは十分有り得る事です。不登校の子供たちの苦しみは、母が抱えている重みと似ているということ。


不登校ケアにおいて『お母さん』は
適材適所なのです。

感銘を受けた歌にこんな詞があります。


産まれてきた意味ならば
あと付けでも素晴らしい



生まれてきた意味だとか、夢だとか、腹が立つこととか、辛いこととか、そのあとの喜びとか、働く喜び、働く苦痛、恋の幸せ、失恋の辛さ、友達の大切さ、友達の無駄さ、学校の意味、学校の無意味、その他諸々、とにかく生きてなきゃ味わう事ができないから、何を得て何を失う人生であろうと、子供の行く道に「行ってらっしゃい」と見送れる母で在りたいわけです。

#要は生きてりゃいい

最後になりました。この記事全体の補足です。

もしも、料理も洗濯も掃除もするよ、だけど『お母さんをやめたい』と思うくらい子供に寄り添うのが苦手な人は、その部分を誰かに頼るのもありじゃないですか?


私が歌っていて恐縮ですが、不登校なんかで悩む少年少女たちを想い、一言一言を丁寧に、歌ってみました。



長文、乱文を最後まで読んで頂き、
ありがとうございました。



公式LINEでは、カウンセリングモニター募集中です。
継続コースでは、ママの心の習慣のサポートに加え、必要に応じて
・祖父母
・パパ
・お子様
に向けたサポートの相談を含め、家族全体が同じ方向(お子さんの『生きる』)にフォーカスし、私が撤退できるようにトータルサポートします。
※要相談


自分だけで抱え込んでいるお母さんは、この機会にモニターカウンセリングを検討してみてください。

よろしければ、サポートをお願いします。頂いたサポートは、娘たちと過ごす時間のために使わせていただきます。