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永井隆著「長崎の鐘」/原爆被害の詳細な記録

最近お友達に加えて頂いたマイトリ♪さんのこちらの記事を拝読。


早速取り寄せて読んでみました。


原爆投下後の生々しい記録の詳細を初めてしっかり読みました。
想像を絶するあまりの惨状に、この世の地獄とはこういう事なのかと涙しながら一気に読みました。

◆この本の著者、永井隆氏のプロフィールと、出版に至った経緯
永井隆氏は、8月9日、長崎医科大学で勤務中に被爆。自らが頸動脈を損傷し血だらけになりながら3日間無我夢中で救護活動にあたったあと全焼した我が家に戻り、妻の遺骨を見つける。
その後二児を疎開させていた三ツ山へ行き、その地で医療隊を結成して死に物狂いで救護にあたったが、
9月25日、再び頸動脈が切れ危篤に陥る。
だが奇跡的に回復し(この奇跡については、よろしければマイトリ♪さんの記事をご参照ください。)1946年8月本書を脱稿するも、占領軍司令部の発行差し止めを受け原稿はアメリカ国防総省に送られた。日本軍が行った「マニラの悲劇」を付録としてつける条件で1949年1月、ようやく刊行に至った。(占領が解けてから付録は除外された。)
との事。

永井氏は原子物理学者、医科大学の放射線科部長であり、自ら被爆し多数の被爆患者を治療した経過の詳細を記したこの本は、「人類史上の大事件の生きた記録」であり、たくましい人間愛の物語である。

ちなみに、「長崎の鐘」の書名は、浦上天主堂の聖鐘に由来する。
終戦後、天主堂の廃墟から掘り起こされたアンゼラスの鐘は50mの高さから落下したにも関わらず無傷で、1945年クリスマスの夜のミサから廃墟の街で再び鳴り始めたそうです。(T . T)

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本書は、原爆が落とされる直前から始まり投下の瞬間の人々の様子、直後の地獄の光景、救護の様子、原子爆弾とはいかなるものか、原子爆弾による傷とはどういうものか。原子病の症状はどんなものだったか。
などなどについて克明に記されている。
大学の木造校舎にいた者は全滅。コンクリートの建物の中にいた永井医師らはからくも命は助かったが、前述したように頸動脈を切りまた体にも無数のガラス片が突き刺さった状態であった。

原爆は、通常の銃撃や爆弾などとは比較にならない威力を持つ。まず「熱射」で露出している肌は瞬時に焼けただれさらに逆に引っ張られるために皮膚が剥がれ、そうなった者はほどなくして亡くなったという。
戸外にいた者は即死。
頭部や体の一部がが吹き飛んだ者、目が潰れた者などその惨状は凄まじく、また、室内にいて大怪我をしていなくともやがて原子の病状が発現し苦しみの末に命を落とした物が続出した。
やがてあちこちで火災が起き、…

涙を堪えながら読み進めました。

そんな苦しみの中、救護隊仲間の1人の放屁で大笑いした微笑ましい様子も描かれていました。↓

空腹と疲労と疼痛とでみんなはすっかりへたばっていた。もう口をきく者もなく黄昏の山路を帰る。
ぶうっと、いきなり長老が一発発射した。「まぁ、ひどいわ。」と豆ちゃんがいう。「かまわんかまわん、ロケット推進器たい。この勢いで前進するんだ」とまた発射した。今度はあまり音が良くない。「過酸化水素が不純だな」長井くんがひやかした。「製造機はまだ大丈夫なんだが原料不足だから」
応酬ごとにひと笑いして路はいつしかはかどっていた。

本文より引用


永井医師の言葉。
「国は敗れた。しかし傷者は生きている。国家の興亡とは関係のない個人の生死こそ、私たちの本務である。敵味方の区別は、本来赤十字にはないのである。日本が個人の生命をあまりに簡単に粗末に取り扱ったから、こんな惨めな目にあったのではないか。
自らも負傷し原子病に苦しみながら、彼は使命感に燃え患者を診続けた。

かくして、救護隊は満身創痍の身でありながらただ一途に原爆投下から2ヶ月間、自らも原爆で受けた傷と原始病に苦しみながら巡回診療を続けた。

こんな言葉も。
「戦争成金で朝晩喜んでいる階級がある。それこそ潰さねばならない。戦争は儲かる商売だ。10年に1回くらい戦争が有れば千万長者などと言っている。」

後半、「神様」というものに対する永井医師の言葉。
「戦の神様に祈ったというけれど、戦の神様というのは、百日咳の神様というのと同じく人造の神様でしょう。自分で自分に都合のいい神様を作っておいて、それに自分勝手な願いをするのは、テルテル坊主みたいなものだ。虚像を相手に、ひとり拍手再拝していたわけだから。願いが叶わないのは、祈りが足りなかったのではなく相手が虚像だったから。人造の神様じゃなく真の神様から恩恵を頂くのが本来の在り方。
部下が「日本には日本の神々があるはず」と反論すると、永井医師はこう答えた。
武力で押しつけられなくとも万民が信仰するものであればね。しかしその思想は2千年も前にローマで批判し尽くされた原始民的国家神道ですよ。

さらに永井医師の言葉。
「実戦というものは残酷なものですよ。戦争文学を寝転んで読んでおれば美しく、勇ましいが実際は違う。真実を写生したものは検閲にかかって発表を止められる。義経の戦には絵がある。乃木大将には詩がある。しかし原子爆弾のどこに美がありましたろう。あの日あの時この地に広げられた地獄の姿を一目見なさったら、きっと戦争をもう一度やるなどという気を起こさぬに違いない。これから戦争が起こるとすると、至るところに原子爆弾が破裂するでしょう。そうして無数の人間がただピカドンと潰されてしまうのです。美談もなく詩歌もなく絵にもならず音楽にもならず文学にも研究にもならず、ただローラーで蟻の行列を押し潰すように地ならしされるだけのこと。」

最終章では、生を得た人々がどのような経過を辿って生きる力を取り戻していくのか、について言及されていました。

1951年5月、重症を負いながら6年間渾身の治療を尽くし何冊もの貴重な著作も残した永井医師はこの世を去りました。
マイトリ♪さんの記事によると、

長崎市は、5月14日 9時から浦上天主堂で市公葬を執り行う。
2万人が参列。
田川務長崎市長が、総理大臣の吉田茂等300通の弔電を
1時間半にわたって読み上げた。
正午に浦上天主堂の鐘が鳴ると、
全市の寺院、工場、船舶の汽笛が一斉に鳴り響き、
市民は1分間の黙祷を捧げた。

マイトリ♪さんの記事より


マイトリ♪さんのお陰で永井医師の存在を知る事が出来て本当によかったです。
ありがとうございました。

原爆の事実を、アメリカの一般市民にも知って欲しいと強く思いました。

長文をここまで読んでくださり
ありがとうございました❤︎

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