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はじめてもらった批判コメントについて考えてみた。

先日、ずっと固定記事にしている、親との確執に関する記事に短いコメントがありました。
親への感謝の言葉は全くないんですね」たったひと言です。
とても嫌な気持ちになりました。このコメントには悪意しか感じられず、この文字は見たくないと咄嗟に削除してしまいました。今はこの事をとても後悔しています。残すべきだったと。
この方とコメントでやりとりをするするのは心が疲れそう、と一瞬の拒否反応が強く出てしまい、蓋をして楽な方へと逃げてしまったのです。

逃げずに、ちゃんと自分の意見を言うべきだったと。消したものは戻らないので、今少しこの事を考えてみたいと思います。

①そもそも、人が自分の所で何を書こうが基本的には自由である。好ましくない記事だと判断したなら、2度と見なければいいだけでは?
②批判コメントをするにも節度や思いやりが欲しい。どうして私があのような記事を書いたのか、に対する共感の言葉もなく、また、他の記事で私と親との関係性を読んでいない事が想像できる、にも関わらずの、初コメントでの冷たい一言。
他人がとやかく言う事だろうか?
あの記事の中で、親への感謝の言葉を書かない私はおかしいと言いたかったのだと思われるが、
もしそれ(感謝の言葉を必ず書く事)が人間として正しいとして(人間の在り方に正解はないと思いますが)何故あなたの流儀に私が従わなくてはいけないのか?
あなたの正義に反する事を書いた記事にはひと言言わなければ気がすまないのだろうか?
そして、人を責めるあなたが発するその言葉が人を傷つける事はあなたの正義なのですか?

✳︎✳︎✳︎

他人の記事を読んだ時、共感できる事もそうでない事もあります。
ただ、共感出来ないからと言って、その記事のコメント欄に書いてまで自分の意見を主張したいとは私は思いません。
例え思ったとしても言葉にしないのが大人、なのだと思っています。

今回のコメントに関してもっと言えば、
上っ面(かもしれない)の「感謝の言葉」を書けば感謝の気持ちを表しているとでもおっしゃりたかったのか。
感謝の言葉を書いていない=感謝の気持ちが私にはないと思ったのでしょうか?
心で思う事は自由です。
しかし、それを口にしても許されるのは幼児だけではないでしょうか。
相手に対して思った事をそのまま言う。書く。
私には幼児性の表れとしか思えないのです。
という訳で、とても腹立たしく残念な出来事でした。

私は、今まで、批判コメントには屈しない強いメンタルを持っていると自負しておりました。
しかし、悔しいけど心が乱れています。

人の批判をする前に、ご自分がそういう思いやりのない書き込みをする事自体への反省を持って頂きたいです。

意見があるなら正々堂々と、ご自分の場所で、「こんな記事があったけれど嫌な気持ちになった」と書けばいい事でありコメント欄に書き込む事ではないと私は思っています。

但し、最近、他人のコメント欄ではなく自分の記事中とはいえ
相手を晒した上で誹謗中傷しまくっている方がおられます。
大変不快です。とても嫌な気持ちになっております。

話が逸れました。

今まで誹謗中傷された事が全くなく、楽しく続けて来たnoteでしたが、心の中でもまだ燻っています。逆に、いつも忙しい日々の中時間を割いて、思いやり溢れる温かいコメントをくださる皆さんに対し、改めて尊敬の念を感じております。
それがどれだけ尊い事かと。
本当に、ありがとうございます。

ちなみに、習慣応援家shogoさんのこちらの記事に↓ 今回の事をコメントしましたところ、共感のお返事を頂きました。

千世さんの記事にも同じコメントをし、温かいお返事を頂きました。↓

shogoさん、千世さん、ありがとうございました。
勝手なご紹介お許しください。

チェーンナーさん、shogoさん、かつおさん共同主催の【コメント勉強会】にも参加させて頂こうと思います。

コメント勉強会マガジン↓

本日は長くなってしまい失礼しました。

それではまた。
長文を最後までお読み頂き
ありがとうございました❤︎