青山透子著「日航123便墜落の新事実」/政府の、国民を救わない保身体質を暴く本。事実であるならその罪は果てしなく重い。
私たち夫婦が結婚した翌年の夏、夫の実家へ初めて帰省した翌日に起きたのが、坂本九さんも犠牲となったあの日航機墜落事故でした。夫の実家の茶の間で皆でずっとテレビ報道を観ていたことをとてもよく覚えています。
森永卓郎さんの「書いてはいけない」と、元日本航空客室乗務員 青山透子さんの本を読み大きな大きな衝撃を受けました。
この事故にこんな大きな疑惑があることを私は今の今まで知りませんでした。
陰謀論めいた話ですが、
元日航客室乗務員で退職後東大大学院に進み博士号を取得された
青山透子さんの渾身の取材内容が詳細に書かれており、大変説得力のあるものでした。
これが本当の話なら、
亡くなった520人の命が浮かばれない。
これが本当の話なら、保身のための証拠を隠蔽する残虐行為を行ったおぞましい人々がいたということ。
これが本当なら、多くの政治家にとって大事なのは国民の命ではない事が明らかになったと言えるのではないでしょうか。
殺人にも等しい卑劣で野蛮な行為が行われたということ。
これが本当なら裁かれなくてはいけない人がいるということです。
それはまた、どんな善良な人間も、人は容易く悪魔にもなれるのだという事を物語っているように感じました。
こうして見ると、過ちを認めることが出来ない日本のトップの愚かしさで、どれだけの人がかけがえのない命を犠牲にして来たことかと、
この不条理に対して憤りと怒りを感じずにはいられません。
奇しくも、日航機の犠牲者の人数と現在コロワクで死亡認定された人数がほぼ同じ。(実際の死亡者はとんでもない数になっていますが)それだけの方々が証拠隠蔽のための犠牲になったなら許しがたい事件です。(証拠隠滅?何それ、な話です。)
墜落の概要
日航123便は、1985年8月12日、定刻より12分遅れて18時12分に大阪伊丹空港に向けて羽田を離陸。45分のフライト予定であったが、18時56分に御巣鷹の尾根に墜落。
乗客乗員524人のうち520人が死亡するという、世界最大の航空機事故となった。
事故の原因は、機体後部の圧力隔壁の破損により尾翼の一部と油圧装置が吹き飛んで機体のコントロールが出来なくなった事と結論付けられ調査委員会は解散。
しかし幾多の疑念が未だ解決されていない。
多くの謎
⚫︎機体の位置は、墜落直前までレーダーに捉えられており多くの目撃者による通報があったにも関わらず情報は錯綜、翌朝まで不明とされた事。
⚫︎生存者の証言によれば、墜落直後100人位の生存者がいたという。
事故直後米軍のヘリが救助に向かったが、日本政府の、引き返せという指令によりヘリコプターは去って行った。
⚫︎生存者が救助されたのは翌日13時頃。真夏の炎天下で放置された結果となった。夜間山間部でのヘリでの救助は不可能という弁明があったが、著者の自衛隊への取材で、夜間の山間部でも問題なく可能であるという事がわかっている。
⚫︎当時の中曽根康弘首相は、墜落した群馬県上野村が自分の選挙区であるにも関わらず、静養中と称して上野村とほど近い軽井沢で水泳やゴルフを楽しんでおり、事故発生時現場に来なかったが、
元海軍少尉でゼロ式戦闘機搭乗員かつ教官であった上野村の黒澤村長は12日の晩にすぐ墜落現場は自分たちの村だとわかり政府や県に連絡したという。しかしそれは全く反映されなかった。
⚫︎1度横田基地への緊急着陸態勢になるも、何故か進路を変えた。
⚫︎遺体周辺はガソリンとタールの匂いが漂っていた。遺体は触ればボロボロ崩れるほど炭化していたという。
飛行機の燃料は空中で燃えると危険なため灯油に近いものであり、ガソリンとタールを使う器具といえば自衛隊の火炎放射器以外にはない。
⚫︎本当に圧力隔壁の破損が原因なら、人は鼓膜破裂、肺も破裂し生きていられない。(全員墜落直前まで呼吸できていた)
⚫︎いまだ海の底に沈んだままの証拠物を頑として引き揚げない。
⚫︎ボイスレコーダーはいまだ非公開。(一部公開。訴訟中。)
⚫︎日航機の後ろを2機のファントム機が追尾していた事を多くの人が目撃している。この2機は、墜落直前に去っている。このことは何を意味するのだろうか。(想像すると恐ろしい。)
だいぶ端折りましたが、
衝撃の疑惑とは、
自衛隊がミサイル演習中に間違えて日航機を撃ってしまった。(垂直尾翼に当たった)
当時防衛費を増やしたい思惑があった日本政府にとって、この不始末はどうしても公にしたくなかった。
そのためボーイング社の整備不良ということにしてもらった。
この事が、日本がアメリカの言いなりにならざるを得なくなったきっかけになったのではないかと
森永氏。
以下は、森永卓郎さんの著書「書いてはいけない」の内容です。
事故わずか41日後にニューヨークのプラザホテルにて、日本経済にとって致命的な決定がなされた(プラザ合意)
それまで1ドル240円だった為替レートは1987年末には120円台の超高値になった。(これは、日本のすべての輸出品に対して100%の関税をかけたのと同じこと。)
1980年代、日本の半導体産業は世界シェア50%を超えていた。
売り上げランキング1位NEC 2位日立製作所 3位東芝…と日本企業が席巻。
事故約1年後の1986年、日米半導体協定が締結された。
その際秘密書簡にて、日本市場で外国製品のシェアを20%にするという合意がなされた。そもそもは国際法の違反になるので秘密裏に取り交わされた契約ということ。
これ以降日本の半導体産業は急激に失速。1993年には世界シェアでアメリカに逆転される。
現在の日本のシェアは10%以下。半導体産業の凋落にはさまざまな要因があるが、この日米半導体協定がきっかけになったのは間違いない。
森永卓郎さんのこの見立てが正しければ、日航機墜落の責任をボーイング社に押し付け弱みを握られたつけはあまりに大きく、現在の日本の衰退の大きな原因となったと言って過言ではないと思われます…
<まとめ>
これが本当なら、
政府は過失隠蔽のために520人を見殺しにした、、いや、殺したということになり、それだけでなく
世界に誇れる日本の産業をもズタズタにしたのは、この悪魔の所業を決定した当時の政府ということになる。
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noteで、お父様が墜落直前に
ファントム2機に追尾されながら炎をあげて飛行する123便を目撃したという記事を見つけました。
大枝さま、記事をお借りしました。
貴重な情報ありがとうございます。
長文をお読み頂き
ありがとうございました❤︎