小さな教会で出会った言葉
日々
前を通る
小さな教会
今夜お話し会
やってたな
勇気を出して
ひとり
教会の扉を開ける
隅っこで聞く
神父さんの話
響いた言葉は
この世はままならず
今の私に必要な言葉は
これだったんだ
覚えているのは
この言葉と
硬かった
教会の椅子
もう
行くこともない
教会だけど
今も私は
あの日の言葉と
共に生きてる
🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀
今から10年以上も前。
長男が不登校になった頃の話しです。
その当時の私の心境は
この世で私が一番不幸。
それくらい人生に悲観していました。
ある日普段から歩いて行っているスーパーの途中に、小さな教会があることに気づきました。
水曜日の夜にはお話し会がある。
ドアにずっと貼ったままの色褪せたお知らせに目が留まりました。
そうした貼り紙って、今まで全く気づかなかったのに、こんな時って何故か目が行くものなのですね。
水曜日のある夜…
7時からと紙に書いていたので、私は夕飯を済ませると家族に黙って教会に向かいました。
私には特別信仰する宗教もありません。
だから家族に「教会へ行く」と言うのが恥ずかしかったのかも知れません。
教会に着くと私以外の方々は常連さんのようで
(いや、信者さんとお呼びするのが正しいのかな?)
和やかに周りの席の方と世間話などしていました。
私は初めてなので隅っこに。
硬い木の椅子が印象的でした。
ほどなくして神父さんのお話しが始まりました。
その間私は何故か
泣けて泣けて
仕方がありませんでした。
何に対してなのか。
悲しいのか。
悔しいのか。
それすら分からず…
もしかしてずっと子供と家にいたから
私自身我慢していた色んな感情がここでは解き放たれ
涙となって出てきたのかも知れません。
隅っこの席で私はひたすら涙を拭き鼻を啜り続けていました。
その時のお話しの前後など何も覚えていないけれど
「この世はままならず」
なぜかこのフレーズだけが心に残りました。
お話し会は1時間足らずだったでしょうか?
私が教会から帰宅したら
「お母さんがいなくなった」
と、家族が大騒ぎしていました。
「ごめんごめんお母さんちょっと散歩して来た〜」
私はそう誤魔化しました。
教会にはこの日1回だけで再び行くことはありませんでした。
今は他の場所に引っ越ししたのでもうこの教会にも訪れることはないでしょう。
ただ、この日から
「この世はままならず」か…
と、ことあるごとにこの言葉が頭に浮かぶようになりました。
そう、もう10年以上も経っているのに…です。
ものごとを
自分でどうにかしようとか
こうしてみせる、などと
力を込めて動かせるものなど
人生の中では少ししか無いのかも知れません。
でも気づいたら力づくで動かそうとしている私がやっぱりいるのです。
これからも私はあがきながら生きて行き、その度にこの言葉を思い出す。
その繰り返しで良いのだと思いました。
今こうして当時のことを書きながら
(もうそんな昔になるのか…)
と改めて思いました。
おかげで少し気持ちの整理がつきました。
これを読んで下さった方にも、何か心に触れたものがあれば嬉しいです。
読んでくれてありがとう。
出会えたご縁に感謝します。
最後まで読んで下さってありがとうございました🍀私の思いを私なりの言葉で綴りました。あなたにこの思いが届いたなら、とても嬉しいです😊あなたからのサポートは、愛あるnoteの世界に循環させていただきます💕