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ゆとりの時間と曖昧さ

最近は、ゆとりの時間を楽しむことができるようになったなぁと思う。

一人で紅茶を飲みながらぼーっと外を見ていたり、砂時計が落ちるのを見ていたり、スノードームを何回もひっくり返して見ていたり。そういう時間がいとおしく思える。

やることがたくさんあって「ぼーっとしてる時間が勿体ない」などと思っていた時期もあった。ぼーっとする時間が減ることによって「曖昧さを許せない自分」が出現する。

本来、私はかなりいい加減な人間で、黒か白かと問われれば「グレーかな」と答えるタイプの、へらへらっとした性格だったように思う。

寝る間を惜しんで何かを始めた頃から、「時間」というものに縛られるようになって、時間に対する効果を期待するようになった。ぼーっとする時間など勿体ないとしか思ってなかった。

最近、その頃の私と同じような人を紹介された。

彼女は、時間は与えられるものではなく、自分で作るものだと豪語し、空いた時間はすべて自己啓発に充てているという。なのに何もかもうまくいかないと嘆く。

まさに昔の自分のようだ。

彼女は自己啓発本を読み漁り、セミナーやワークショップに積極的に参加したりして、自分を高める努力をしているにも関わらず、いつも何かに憤慨しているという。

「(他の人が)なんでこんなことで悩む必要があるんだろうと思うことが多い」「時間を無駄に使っている」「要領が悪い」「結論がわかってるのに一向に話が進まないのはなぜか」などでいろんな人に怒っているようだった。「世の中、バカばっかりに見える」と極言も出てきた。紅茶を吹き出しそうになった。

でもわかる。それを理解できるのが悩ましい。黒歴史を掘り返される気分だ。

曖昧さが許せないのだ。「曖昧」だと時間がかかるから。白は白。黒は黒と決まっていれば、その通りに動けばいいから考えなくていい。「曖昧」だと考える、判断することが必要になる。時間がかかる。そして自分の曖昧さも他人の曖昧さも赦せなくなってくる。

曖昧さが赦せなくなってくると、世界はすべて、自分自身でさえ敵になる。ということに気づくには、もう少し時間がかかるのだろう。時間を大切にしながらも、その時間は惜しくないのだろうか。

彼女もいつか気がつくだろうが、時間に終われているとなにも生まれない。ぼーっとする時間こそ「ものごとを考える」ことができる。

人も自分も赦せるようになるには、時間に追われてあくせくしていると無理なんだと思う。

「理解はできる。けど人それぞれやしなぁ」などというと「あなただけはわかってくれると思っていた」と言われた。なんで出会って数時間のその人をわかることができると思うのだろう。きっと彼女にとって私はそっち側の人に見えたんだろう。複雑だ。

たぶん、二度と彼女には会わないような気がする。曖昧な私を彼女は赦さないだろうし、ハッキリしている、同意が得られると思っていたのに「裏切られた」のだから。

会いたいと言ってきたのは彼女なんだけど・・・なんだかなぁ。

などと今は思っていても、知らない間に彼女のことはすっかり忘れて、のらりくらりとゆとりの時間を楽しみながら、これからも曖昧に生きていくのだ。

紅茶を淹れて、美味しいお菓子をつまみながら、スノードームをひっくり返してキラキラを見る。そんなとき、私は世界の一部でしかなく、目に見える世界はすべて私の一部なのだと素直に思える。

私はそれでいい。

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