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考え方

哲学も宗教もいいけれど、基本的には統計あるいは数字、数式を信じている。

大学の時の般教の物理学の教授が「この世の中に存在するすべての現象は、数式で表現できる」と言った。

入学して間もない当時、「この言葉を聞けただけで、大学に入って良かった」と感動した。他にもたくさんの発見があったから、今ではそれだけが入学して良かったと思うことではないが、それも良かったことの一つとして私の心のなかに君臨している。

とはいえ、いろんなことを知りたがりだったので、哲学や宗教学に傾倒していた時期もある。確かに、昔の人が遺した名言は、はっとすることがあるし、宗教では処世術のようなものを身につけることもできる。

個人として心情的にみた場合、たぶん理解しやすい分そちらの方が有効に働く。考えなくてもいいからいっぱいいっぱいな時には、それにすがることもあるだろう。

また、そういった世界にどっぷり浸かっている人を理解するために、ある意味有効な学習だったと思わなくもない。(私の母親は宗教にハマっているので、その理解のために宗教についていろんな書籍を読んだりした)

とはいえ、統計も範囲や母数、対象、時代などで変化するし、因子分析で出た答えをどう解釈するかとか、その統計を読む人の個性も大きく関わるものだと思う。それでももとになったデータを自分で確認することが可能なものが多いし、統計から得られた考え方というものには共感できるものも多い。


例えば「分相応」という一つの言葉がある。シチュエーションによって使う意味に多少の差異はあったとしても大体は「身の丈に合う」などというのが、その分としてとらえられる。

では、「身の丈に合う」とはどういうことなのか?

読んで字のごとし、自分の身長に合った洋服のように、自分にとって適切な事象、物などを指す。年収300万の人が、1000万の人と同じ生活はできない。

指導される人が、指導する人に意見するにはその意見に対する正当性が確立されていなければできない。(たいていの場合は正当性を確立できないから『指導される』のだが)

そういう自分ができる範囲のことを超えてしまうことを「分不相応」などという。


では、その「分」は何が決めているのか。統計による数値ではないだろうか。

例えば住宅ローンなどはいい例で、年収の5倍程度が目安とされている。これはそれ以上貸すと回収できなくなる人が多いという統計に基づいたものだ。さらに、返済額が年収の1/3だとかいうのも適当な数値ではなく、そういった統計の上に目安として決められている。

それによって、家を買える人と買えない人ができる。それでも無理に買うと「分不相応」となる。


なんでこんな当たり前のことを延々と書いてるかというと、理解してくれない人が身の回りに増えてきたからだ。そして、それを理解してくれない人はだいたい効率の悪いことを押し付けてくる。

人は、その周囲にいる5人の平均だとも言われるが、「ということは、自分自身がこういう人に近づいてきているのか?」という不安を覚える。

自分の考え方の整理をしてみた。

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