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この世界の片隅に

終戦記念日が近くなると、戦争もののアニメを見る機会が多い。今年も去年と同じ「この世界の片隅に」を観た。今年はなぜか「すずさん特集」みたいなのをNHKでやっていて、当時の生活の様子がアニメで再現されるそうだ。

少し前までは「火垂るの墓」ばかり見て、ただただかわいそうで悲しんでばかりいたけれど、「この世界の片隅に」を見始めてからは、もう「火垂るの墓」を観ることがなくなってしまった。

重いものを二つも観られるほど、余裕はないのかもしれない。暑いし。

以降ネタバレあり。

この映画の主人公はすずさんという普通の女の子~女性だ。なので共感することはとても多いし、日本の女性の大半はすずさんの中に自分を見るんじゃないかと思う。世の中はすずさんで溢れている。

そんなすずさんだからこそ、感情の突出した場面に込められた意味は大きい。戦時中だけではなく、今に通じるものがあるからだ。

すずさんは、時限爆弾で右手を喪う。好きな絵も描けなくなるし、姪も右手と一緒になくしてしまう。それでも「生きてて良かった」と言われ、「何が良かったんだろう」と思う。

早期癌が発見された人に、つい「早く発見できてよかった」などと言いがち。

私の友人は乳癌で乳房を失った。発見が早かったので、放射線療法や薬物療法に至らずに寛解期に入ったが、彼女は「早く発見できてよかったね」とさんざん言われたそうだ。

本人もにこにこしながら「そやねん」などと言うから、誰も気付かない。「乳房なくして何がよかったやねん」と彼女は思っていたし、絶望していた。

そういうことは、病気や癌だけじゃなくて日常的にあって、自分が良かれと思ってかけた言葉が、相手を傷つけることは多い。言葉をかけた人はずっとそれに気付かないままだ。

また、すずさんは玉音放送を聞いてそれまでにないくらい怒る。
「最後の一人まで戦うんちゃうんか!ここにはまだ5人おる。左手も足もまだある!」

自分が信じてきたものに裏切られ、信じたもののために「耐える生活」をしてきたというのに、明日からはなんのために「耐える」のかと嘆く。

誰かが発した言葉があって、発した人が信頼すべき人であれば、それは受け止めた人にとって「絶対」になるということだろう。

今の私はそんな立場ではないから、誰かの運命を変えたりはしないだろうけれど、元医療従事者としては身につまされるものがある。

私はかつて、不用意に発した言葉で人の運命を変えたことがなかっただろうか。悲しい想いをさせたことがなかっただろうか。私の職を信用している人に、その言葉を「絶対」と思わせてしまったことはなかっただろうか。

ある。他の誰も知らなくても自分は知っている。

「この世界の片隅に」という映画は数年前から毎年この時期にどこかで観られる。シーズン中に繰り返し観るのは自虐なのかもしれない。人にはなかなか言えない十字架のようなものだ。

戦争とはあんまり関係ないけど、こういう機会にはちゃんと思い出して反省しないと、人としてダメダメなんじゃないかと思う。

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