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男女の役割

地域の男女共同参画会議というのに呼ばれて行ってみた。

これまで男女で分けられてきた固定的な役割を見直す。性別にかかわらず、喜びや責任を分かち合える心地よい関係を築いていきましょう。という趣旨の会なのだが、なにかが違うと思ってしまった。

個人的に、男女の役割は分担されてていいと思っている。

最近は、女性でも高等教育が普通に受けられるようになったし、なんだかんだいいながらも社会進出しているように思う。

その中で、女性だからという理由で大事な仕事を任されることがないとか少ないとか、それはあってもしょうがないと思う。

女性には子どもを産むための機能がある。そして人間という動物は子孫を残さねば絶滅してしまう。両性具有の生物と違い、雌雄がある生物なので、動物としての役割分担はある。

女性には実際の妊娠、出産だけでなく周期的な月経などの負担がある。さらに更年期というものがあって、人によっては病院のお世話にならねばならないくらいにしんどいことはよく知られている。

女性が男性という性に(種族保存のために)守られてきた、役割分担してきたという歴史は、別におかしいことでもなんでもないと思う。

ジェンダーとは「社会的、文化的に形成された性別」で、身体的な男女の違いではなく、社会の中での男女の差を意味するという。

で、生物学的(身体的)な男女の違いを無視して社会的な男女の平等な立場ってほんとに作っていけるの?と疑問に思う。

子どもを産む女性という性が、その負担のない男性と同じ土俵に立つ必要があるんだろうか。

確かに、この国での女性の社会的地位は低い。何かあればすぐに「女のくせに」と言われ続け、今よりもっと女性の地位が低かった時代を生きてきた者から見ても、若干マシになったとはいえ、まだまだ低いと思う。

それを「なんとかしないとダメだ」と思う人があることに疑問があるわけではない。方向性に疑問がある。

3世紀~5世紀くらいまでの日本では、女性と男性がちゃんと役割分担できていた。
卑弥呼が首長となり弟が実際の政治を動かすというように、実質女性の地位は高かった。
逞しい女性もたくさんいたし、中には紛争にも中心的な武力として参加した女性もいたようだ。中国から律令制などというものがまだ入ってきてない時代だ。

そのあとだんだん女性の地位は低くなるわけだが、奈良時代には女性のところに男性が通うという母系社会だったし、とりあえず8世紀に男性が女性の結婚に口を出すようになるまでは、ずっと女性中心の社会だった。
男性は女性が快適に過ごせるように社会を整えていたにすぎない。

8世紀くらいから男性が世の中を動かす力を持ちだしたわけだが、女性には宗教的に強い力がある?とか認められていて、この頃はまだ女性天皇も複数名存在した。

古代末期から中世にかけて(10~12世紀くらい)武士が出現し、ようやく男性の家に女性が入る形態になった。
戦争にいく男性の留守を守る。家庭を仕切るという役割を女性は得た。親の財産も普通に相続していたので、男性の家でも大きな顔をしていたし、政治的な発言力を持つ女性もあった。北条政子がいい例である。

武士社会で男尊女卑が顕著になったと言われる江戸時代においても、松坂屋ウタにみられるように、活躍していた女性はあった。

同じように家父長制で雁字搦めの明治には津田梅子さんがいた。

どんな時代でも男女に関係なく「できる人はできる」し、「できない人はできない」。それを忘れて、社会のジェンダー意識が低くて自分にはチャンスがないなどというのはちょっとおかしくないか?と思ってしまう。

男女平等、結構なことだと思うし、そうなればいいとも思っているが、産休も育休も生休もとるけど責任ある仕事もしたい。大きなプロジェクトにも参加したいとか、いいとこ取りすることが平等なのかな?

無理やり社会的地位を得ようとしたところで、自身に才覚がなければ普通に埋もれる。
それは、男性だって同じことだ。

もし、自分が旦那さんより「できる人」なら、旦那さんに育休をとってもらうとか、専業主夫してもらうとかの方法を選択して、自分は産休のみで社会復帰したらいいんじゃないかな。

それができないなら「できる範囲」とか「女性でしかできないこと」で社会参加するのもいいんじゃないの?とか思うのだ。

もちろん「できる人が認められない社会」なんてクソクラエと思っているから、認められることは大前提だが。

いま、ジェンダー云々と大きな声で言ってる人は、むしろ「男女に関わらず才能ある人を埋もれさせてしまう社会」に抗議した方が早いんじゃないかとさえ思う。

狩りをするために天候だけでなく風の向きや草木の繁りかた、獲物の習性など様々な情報を瞬時に理解し解決するために男性の広い視野と情報処理能力はもともと備わっていた。

子どもを守ることを第一に考えなければならなかったから、女性の視野は子ども中心、農耕を含む身の回り中心になり、瞬時に処理するより長い目で見ることが必要になった。それが家を守るという仕事を与えられて研ぎすまされてきた。

人類が二足歩行を始めたときから、男女の役割は決まっているのだ。どちらが欠けても滅亡する。

いまの多少過激とも思われるジェンダー関係の運動や主張は、人類滅亡への一歩のような気がする。

ウーマンリブから始まったこの国の女性解放運動によって、「子どもを産む性としての女性の尊厳」が、ますますないがしろにされている気がするのは、私だけだろうか。

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