自分では変えられないもの
オリィさんは、対孤独用ロボット「OriHime」等で著名な方だが、今朝こんなツイートをされていた。
まぁ、普通に当たり前のことを仰ってるわけだけれども、とても忘れがちなことだと思う。
「自分は自分の意志で変わることができる」と思いがちだ。
先に環境に自分を投入して、そのなかで自分の役割を見つけて考えて行動することで、環境も変わるし自分も変わる。というのが普通の人で、最初から「自分が何かの役に立てる環境」を探して身を投じられる人は少ないと思う。
後者の場合は、現在の環境を捨てることができるという条件が必要になってくるし、「役に立ちたい」と言える何か信念のようなものや、そのための技術、知識などを持っている必要もある。
私は前者だが、障害を持つ子どもが生まれたという、与えられた環境の中で、自分のできること、役立つことなどを考えながらやってきて今に至る。
私は変わった。私が変わろうと思って変わったわけではなく、必然的に変わらなければやっていけなかったから変わっただけのことだ。
自分が目指すものと「環境」が望むものが違った場合、一度クールダウンする必要はあったかなと思う。
まず、その環境から離れる。
望まれている自分はどんな自分だろうと考える。自分が望む自分と、その環境において望ましい自分の違いや同一性を把握する。そこに戻る価値や必然があったから戻った。
ゆっくり深呼吸をしてから戻る。
戻って微調整を繰り返し、またズレが出てきたら一度出る。考える行動する深呼吸する。また戻る。
その繰り返しで「環境に適した自分」が出来上がりつつあって、いまはそれなりに快適に過ごしている。
私には必然があったから、その環境を捨てることができなかった。なので、そこに存在し続けるために変わっていった。
人間って、そうやって変わってきた動物だと思うから、もともとそういう調整機能や考え方の土台は備わっているはず。気候などの外的環境を考えればわかるだろう。どうやったらそこで快適に過ごすことができるのかを考えて、常に変化していくのが人なんだと思う。
ただ、強制的に放り込まれた環境では、今までとの違いに混乱し、拒否し、逃走したい気持ちでいっぱいになってしまう。
少し慣れてくると「ここで何をしよう。何ができる」を考えるようになる。そこで何かを見つけないといけないような気になる。それは焦りを生み出し、余裕がなくなる。そしてまた混乱、拒否、逃走へと戻る。一旦クールダウンできるならいいのだが、なかなかできない。
しょうがないからじっとしていると「あれ?もしかして、ここで存在してるだけでいいんじゃない?」と思う。
そう。何かをするとか貢献するとか、そんなことは本来どうでもいいことなのだ。自分と自分の周囲が穏やかに、にこにこできていれば何も問題はない。
貢献とか活動とかを行う「より良い自分」は、それが為されてからで十分。というかそれが為されていない状況では、どんなに焦っても何もできない。
必然とされる環境は自分の一部であり、自分はその環境の一部。それを認めて穏やかに笑っていられるというのは、この世界ではけっこう難しい。自分だけではどうしようもなく、環境による影響が大きすぎるから。
でも、そこで笑える人だけが「何か」を見つけて次のステップに行けるんじゃないかとも思う。
その環境を捨てて、より良い自分を目指すなら、より良い環境に身を置けるように「どんな環境にあっても笑っていられる強さ」は必要かもしれない。
とりあえず笑えるくらいにはなったから、ちょっとこれから「何か」を探してみようと思う。環境探しはそれからでいいかな・・・とか言ってるうちに寿命になりそうだ(笑)
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