見出し画像

せん妄

父の話を少し。

父が亡くなる前、ときどき「せん妄」と思われるような言動をしていた。

「よう来てくれたな。この雪の中、悪いなぁ。ありがとうな。」

にこにこしながらそう言った父の目の前の椅子には誰も座っていない。外はよく晴れた秋晴れで雪の季節にはまだ遠い。

「おっ。もう帰るんか。足元悪いさかいに気ぃつけてな。嫁さんにもおおきに言うといて」

私が黙って本を読んでいる傍らで「誰か」と話していた父は、そう言うとベッドからゆっくり起き上がった。安静指示はなかったので、そのまま介添えしてドアまで「誰か」を送っていく。

「あぁ疲れた。見舞が多いとしんどいな」

父はそう言ったが、いつ逝ってもおかしくないという状態になってからは、家族以外の人は見舞を遠慮してくれている。その日、朝から交代で付き添いに入った私が「誰か」を迎えたのは4回目だった。3回目までは「雪」とは言わなかった。

「久しぶりに顔見たわ。」というと「誰か」の話を嬉しそうに始める。そこでようやく誰が来たのかを知ることになる。

1人目は亡くなった祖父(母の父)だった。2人目、3人目は父がやっていた会社の従業員だが、3人目の人はすでに亡くなっている。4人目はまだ父が若かったころ、祖父のところで一緒に内弟子をしていた人で、生涯独身を貫いているはず。

「お嫁さんもらわはったん?」と尋ねると、「ようできた嫁さんが来てくれてなぁ。あいつもやっと一人前や」と言った。「いくつやったっけ?」「もう40になるわ」

私がまだ小学生のころその人のお嫁さんになりたいと言ったときに、父が大喜びしていた記憶が蘇る。父とその人は3歳違いなので、父が43歳の頃に嫁さんをもらったことになっているらしい。その年の冬といえば、私は成人式だったなぁなどとぼんやり思っていた。

父は見舞客が来るまで、こんこんと眠る。目覚めると来客があって、私は「誰か」にお茶を出すために食堂の給湯器に向かう。お茶を淹れ終わって本を開くころ、「誰か」はお帰りになる。

その日は結局6人のお客さんがあって、その度に起き上がってベッドに座ったり、見送りしたりしていたからかなり疲れていたようだ。それでも夜は痛みで眠れない。痛みだけでなく夜間のせん妄も辛かったようだ。

誰かの泣き声が聞こえるとか、手足を縛られるとか言って怯えることが多かった。看護師さんがやってきて「そんなことないから大丈夫」というと、小さな声で「何にもわかってへん」とぷいっと顔をそむけてしまう。

はたから見れば「おかしい人」だけど、父には事実なのだから厄介だ。

まだ自宅にいる頃にはいろんなものが見えたようで、よく電話がかかってきた。

「お母さんがご飯にゴミを混ぜる」「縁側で飼ってたカナリアはどこへ行った?」「昨日、家の中をキツネが走り回って大変やった」などなど。ネズミに齧られたこともあったらしい。ずっとせん妄の中にいるわけじゃなく、ちゃんと戻ってくるのが微妙だった。

本人にとっては事実で、その出来事を忘れてもいないのに、人から「そんなことはありえない」と否定され、挙げ句の果てには「ちょっとボケたんちゃう?」などと言われて怒る。誰にも理解を得られず悲しむということの繰り返しだった。

肝硬変はアンモニア脳症も引き起こしていたので、攻撃的になり家族に暴力をふるうこともあった。正気に戻って「死にたい」というのも繰り返した。

私は同居してるわけでもなく、親元から遠いところに住んでいて、手のかかる子どももいるからあまり呼ばれなかったが、電話でよく訴えを聞いた。父は孤独だった。

誰にも理解されないせん妄というものは、本人にとってはつらいだろうし、傍らにいるものに哀しみをもたらす。できれば、そういう症状がないほうが良いのだろう。

だが、亡くなる前日に父が会った人々は、父にとって「会いたい人」だったのではないかとも思うのだ。

腹水でパンパンに膨れたお腹をかかえ、浮腫で皮が薄くなってしまったような手足を動かしてまで、戸口まで見送りたかった人たちだ。

現実には会えない亡くなった人や、心を残してきた人に会えたのなら、それはもしかしたら父にとって良いことだったのかもしれない。

私にも死ぬ前に会いたい人がいる。それがせん妄だったとしても、会えたらうれしいなぁと思う。

せん妄

意識混濁に加えて奇妙で脅迫的な思考や幻覚や錯覚が見られるような状態をいい、健康な人でも寝ている人を強引に起こすと同じ症状を起こすことがある。ICUやCCUで管理されている患者にはよく起こる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?