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雑感

最近は寒い。つい先日まで30℃近くあったのに、日中でも室温15℃とかになってる。あっという間に秋が駆け抜けていく感じ。台風もきていて、日差しもないし昼間も暗い。

ネガティブ要素盛りだくさんなのだが、そんなにネガティブになるわけでもなく、もくもくとお風呂掃除やシンクの磨き上げをしていると、なんとなく自分が歳をとった感じがする。

動じなくなった。

雷の音に怯えておへそを隠していたことがあったのが、ずいぶん昔のことに思える(実際にずいぶん昔だが)。


今日は、タイトルをつけるまでもない程度の雑感。

子曰、
吾十有五而志于学。
三十而立。
四十而不惑。
五十而知天命。
六十而耳順。
七十而従心所欲、不踰矩。

言わずと知れた論語(為政)にある有名なことばだ。少し勘違いすることが多いが、これは「孔子が自分の一生を振り返って、その人間形成の過程を述べたもの」で、万人に当てはまるものではない。

旺文社の「論語」では、以下のように口語訳されている。

子曰く、、
「私は十五歳のとき学問に志を立てた。
三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。
四十歳になると、心に迷うことがなくなった。
五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。
六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。
七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、人の道を踏みはずすことがなくなった」と。

繰り返すが、「孔子」だからこのような過程で生きられたということだ。

身近な人がこれを引用して「40になるのに、まだまだ迷うこと多いわ」などと呟くと、つい「君は孔子か?」などと思う。 迷って当たり前。

70歳以上の人がみんな「自分のしたいと思うことをそのまま」やったら、この世界はとんでもないことになってしまう。全員が孔子ではないのだから。

目標としてそれを目安にすることは、別に悪いことだとは思わないが、大部分の人は達成できずに挫折するだろう。「へぇ~孔子さんってすごいな」くらいに思っているのがちょうどいいんじゃないだろうか。


最近は、朗読ボランティアというものに誘われて時々行っているのだが、利用者もスタッフも70歳以上のお年寄りが多く、最近のお年寄りという存在を身近に感じることができるようになった。

お年寄りというのは、千差万別だ。もちろん年齢に関係なく千差万別なのが人という生き物なのだが、その個性は歳をとるにしたがって研ぎ澄まされていってる感じがある。

ボランティアという特殊な団体で、そのメンバーと利用者しか知らないからそう思うのかもしれないが、「自分を一番大切にしている」というのを自覚している人が多い。その手段としてのボランティアであり、他者との交流や、勤勉な自分を表現するための利用だったりする。

「大切な自分」というものは同じだが、表現の仕方が様々。そこに千差万別の個性があるという印象を受ける。

人の世話を率先してやる人、自分の外見を派手に着飾る人、健康維持に没頭している人、他人を言い負かすことに喜びを感じる人、誰にでもどんなときにも「ありがとう」と拝む人、などなど。そして、自分の興味のないことからは、さりげなく距離をおいているように思う。

Aという75歳のご婦人は自分を着飾ることが大好きで、いつも派手なシフォンのストールをまとっていたり、大きな宝石がついた指輪をしていたり、洋服や小物がブランドものばかりだったりする。香水も驚くほどきつい。

そんな彼女が、別のご婦人Bさんに服装のアドバイスをしている。ところがBさんは服装のことにはほとんど興味がなく健康オタクだったりする。

Bさんは、へらへらと聞き流しながらAさんを伴い、そっと他のグループに近づいていく。気がつくと全く別の人がAさんのファッション談議を聞いていて、Bさんは別の健康オタクの人と話している。こういう「嫌なこと、めんどくさいことからさりげなく離れる」のがうまい人が多いなぁと思う。

こういう「相手の感情を害さずにうまく避けられる」人が周囲に多くなることが、現代のお年寄りに「自分のしたいと思うことをそのままやっても、人の道を踏みはずすことがなくなった」と思わせているんじゃないだろうか。

とある紳士が孔子を引用して「好きなように生きられる」と宣うのを聞いた。

人の道を踏み外していなくても、迷惑になることはある。孔子と一般的な人とはちょっと違うのだが、気づいている人はわりと少なくて「年寄りは今まで頑張ってきたから、好きなようにしてもいい。70歳を超えるとそういうものだ」などと本気で思っている人も少なからずある。

これが、暴走老人やキレやすい老人の発生に繋がる考え方なんじゃないだろうか。「そんな風に思ってると社会から見放されますよ」なんて口が裂けても言える雰囲気ではない・・・。

ボランティアという活動を通して社会で貢献されていて、たくさんの知識を蓄えておられるが、更新も再検討もあまりされていないなぁという印象をうける。たぶん地域性とかもあるのだろうが、そういうお年寄りは端から見るとちょっと厄介だったりする。それを言うと激昂するし、融通がきかない。

年齢を重ねると柔軟な発想はできなくなるし、これまでに十分な知識を蓄えているし、あと十数年で寿命と思えば、今から新たな知識を得てもしょうがないと思う部分もあるだろうけれど。


脳は鍛え続けていないと衰える。全く歩かなくなると筋肉が落ちて歩けなくなるように、脳だって使えなくなるんじゃないかと思う。

逆に、鍛え続けていれば見事な筋肉が維持できるように、脳も使い続けていれば思考する力が維持できるだろう。たとえ加齢によって細胞が減っていったとしても、それを補うために別の血管が伸びて活性化させる分野だってできるはず。

身体的な能力にはすこぶる自信がないが、せめて考える力だけでも、できれば新たな分野の開拓を。無理ならなるべく現状維持で残したい。

脳に解明がなされていない部分が残っている限り、その成長には終わりはないんじゃないかと思う。いや、思いたい。


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