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三姉妹の末っ子の宿命

わたしは三姉妹の末っ子である。学年ではちょうど3学年違いなので、中学校の教員だった父が「同じ時期に同じ中学に在籍させないように」と願った結果のような気がする。同じ時期に同じ中学に兄弟姉妹がいる家庭はなんといっても参観日の母親はてんてこ舞いである。また子供にしても教師に成績面で絶対に比べられるのでたまったものではない。これについては両親とも既に亡くなっているので確かめようがないし、そもそもそんなことを聞けるような親子関係ではなかった。

そんな父はどうやら3番目は男の子が欲しかったらしく、お腹が前に突き出てきた母を見て、お産婆さんが

「今度こそ男の子だでね!」

と言ったことを生まれる時まで信じていたらしい。
お産婆さんは家の裏手に住んでいて、産気づいた母がそこに向かってからは自室のある2階に閉じこもって、ひたすら子供が生まれるのを待っていたようだ。おそらく生まれてくる子供の名前を考えていて、それは「茂雄」とか「貞治」だったに違いないとわたしは思っている。
(父はプロ野球の大ファンで、ひいき球団は中日ドラゴンズだったが、この2人だけは別格でただただ憧れの存在だった)

「生まれたよ!」

階下から祖母が声を掛けると父は

「どっち?」

とすぐさま尋ね、

「女の子...」

という祖母の声を聞いた途端、2階の階段から転がり落ちたというコントのような話を、母から1万回くらい聞いた覚えがある。

1万回は大げさで100回くらい。したがって名前を付ける時も何を考えて付けたのかよく説明されなかった。子供の頃、一度

「どうしてわたしの名前を「まゆみ」ってつけただん?」

と尋ねたことがあったが、上2人の姉の名前は

「お母さんがすごく好きな名前で絶対に子供につけようと思ったじゃんね」

とすんなり答えたのに対し、わたしの名前については

「あ~、え~と、やっぱり好きな名前だっただわ」

などという極めてあいまいな答えしか帰って来なかった。この答えを聞いた時に、わたしの名前は結構適当につけられたんだろうと確信した。

三姉妹の末っ子というのは、服も靴もかばんもすべて「お古」というのが常である。写真を見返しても、どう考えても大きすぎるセーターや長すぎるスカートを身につけているものが多く、こんな「お古」生活でもよく反抗しなかったものだと思ってしまう。中学の入学の時には一番上の姉が3年間使った学生かばんを使わせられ、新品を持ってきてはしゃぐ同級生をうらやましく思ったし、高校入学時に、ようやく新しい学生かばんを買ってもらえたら、そんな新品を持って通学する生徒は一人もいなかったことも思い出す。重ね重ね悔しい。

さて父が中学で野球部の顧問をしていたわたしの家では、土日はおろか夏休み、冬休み、春休みも父は練習に明け暮れてほとんどいない。当然のことながら家族でどこかに行くことは一切話題に上らず、家族で旅行するなどということは、この先も絶対にないとわたしは思っていた。

ところが旅行など縁がなかった我が家で「家族旅行」なるものが行われることになった。当時は教員に対して業者からの接待も多くあり(今は禁止されています)たまたま旅行券というものを手に入れたらしいのだ。

「お姉さん、この中からどこに行きたい?」

パンフレットを渡しながら父は尋ねる。父は一番上の姉をいつも「お姉さん」と呼んでいた。

「伊豆は老人会の旅行でしょう?京都は友達と行ったし、そうね、どうしようかしら」

当時高校生だった姉はなぜかほとんど方言を使わない。わたしは「絶対に気取っている」と思うが、怖くて言ったことがない。

「あんたはどう思うの?」

姉は2番目の姉に聞く。

「わからんやあ。お姉ちゃんの行きたいところでいいよ」

姉は再び、父から渡された旅行のパンフレットをパラパラ見ながら考え込んでいる。時折、当時流行っていたエメロンシャンプーで綺麗に洗ってある長い髪の毛の先を人差し指でくるくる巻いてみたりして悩みに悩んでいる。
次はわたしに聞いてくれるはず...。
しかし姉は完全にわたしの存在を無視し、父と話している。

「長野はどうかしら。季節もいい感じでしょう?でも迷うわ」

父か母がわたしにも聞いてくれると思うのに、まるでその場にいないかのような扱いである。大好きな祖母だけが何となくわたしを哀れに思うような目で見ているのが気になる。
もしかしてわたしがいることを忘れているのかと思い、その場を和ませる気持ちも込めて

「どこでもいいじゃん。行けば一緒だに!」

とわたしは笑いながら大声を出した。その途端、パンフレットを持っていたいた一番上の姉の視線はわたしの方にキッと向けられ、口から

「あんたなんか行かないんだからだまってて!」

という言葉を投げつけてきた。
その場が凍り付く、というのはこういうことを言うのだろう。その後しばらく誰も何も言わなかった。
そう、家族旅行は4人分しか用意されておらず、わたしは数に入っていなかったのだ。

旅行の当日の朝は、わたしはいつも一緒に寝ていた祖母の部屋から出ず、「りぼん」を読むふりをしていたような記憶が残っている。4人が出かけてしまうと祖母が

「さあ、電車に乗ってデパートに行かまい」

と優しく言ってくれた。わたしは頭だけコクンと下に向けて頷き、お古の中でもよそ行きの部類に入る服に着替えて一緒に駅に向かった。
駅から電車で25分ほどでデパートのある街中に着く。改札を出るとそこから目と鼻の先に建っているデパートに向かい、エレベーターで上階のおもちゃ売り場に行った。

「この中の人形のどれを買ってもいいよ」

祖母は、タミーちゃんやリカちゃん人形が陳列されている売り場を指さして言う。タミーちゃんはもう持っていたし、上の姉二人がこっそり髪の毛を綺麗にといて、カールのないものに変えたスペシャル版にしていたので、二人が持っていないリカちゃんとそのお洋服と靴を買ってもらうことにした。この時点で気分は少し良くなっている。

「お昼は食堂で好きなものを食べまいね」

デパートの食堂に行くのは年に数回で、そこで注文するのはいつも「中華そば」だったので、わたしはもちろん食堂に入るとそれを注文し、しなちくはよけて、つるつるっとそばを口の中に入れた。
物欲と食欲が満たされると悲しさを忘れるのだろうか。その時には「家に帰ってあきちゃんにこの人形を見せびらかそう」などということしか頭になかった。
翌日の夕方4人は帰ってきたが、わいわい騒ぐわけでもなく、旅行の感想を聞かせるわけでもなく、それぞれが着替えをして、いつも通りに夕食の時間を迎えた。あとで物陰から見たのは、祖母が母にお金を返している姿で

「あの子、ラーメンでいいって言うもんで、お金が余っちゃったよ」

と言っていた。ちっ、これならお子様ランチにしておけばよかったなと少しだけ思った。

両親ともこの世を去り、遺品の片付けなどで何度も一番上の姉と話す機会があったので、この件を話したところ、

「わたし、そんなこと言ってないわよ」

と笑って否定された。本人は、西海岸の強い日差しに無防備に当たり続けたため、小麦色を通り越し、やや赤銅色に近い肌となり、またオーガニックな食生活のせいで極めてスリムな体型で、年齢も重なり、いい具合にあぶった「あたりめ」のようになっているが、中身は「わたしもすっかり丸くなったのよ」らしい。丸くなったあたりめさんは、その後も顔を合わせるたびに

「何回も考えてみたけれど、わたし、そんなこと言ってないわよ」

と言う。もはやすごくどうでもいいことだし、旅行に連れて行ってもらえなかった事実は本当なので、何の慰めにもならない。
結局末っ子の宿命だったとして胸の奥深くにしまっておくことになるのだろう。


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