見出し画像

ボツボツ恐怖症

誰にでも苦手なものがあると思う。よく耳にするのは「高所恐怖症」で、テレビのバラエティ番組では、高所恐怖症の芸人にバンジージャンプや吊り橋渡りなどをさせて、そのリアクションを見て大笑いするというシーンがしばしば出てくる。あれは本当に怖がっているんだろうか。

画像1


ちなみにわたしの姉も「高所恐怖症」で、エキスポシティができた時に一緒に遊びに行き、スケルトンの観覧車に乗ろうと言ったら、頑なに拒否され、
20分間一人観覧車体験をする羽目になったことがある。あれはとにかく飽きる。備え付けのヘッドフォンで音楽を聞けると書いてあったが、耳にセットしてもうんともすんとも言わなかったし、周りを見回しても方向音痴のわたしにとって、あの山が何なのか、あのビルがなになのかわかるはずもない。ただ「あべのハルカス」とそのそばにちょこんと立っている通天閣だけは理解できた。あれはどっちの方角なんだろう。
そして姉と天橋立に行った時は、リフトで上がった先にある公園で少し高い網目の吊り橋があったので、それに乗ろうと言ったら「絶対に揺らさないでよ!」と言われ、「そんなことするはずないじゃない」(「するに当たり前」の意味)と答えて、姉を先に行かせ、後ろから揺すってみたら、本気で叱られたことを思いだす。苦手というのは「恐怖」と同じ意味なのだと強く実感しました(お姉ちゃんごめんね~)。

さて、高いところ、爬虫類、ガラスがこすれる音(キーっとなるもの)などはだいたい平気なわたしだが、死ぬほど嫌いなものの1つに「ボツボツ」がある。一口に「ボツボツ」と言っても、それは食べ物から始まり、生き物の体表面、植物の姿、自分の体に出たもの、などいろいろである。わたしはこのどれもが苦手なのだ。
食べ物で言うと、「いくら」「数の子」「飛子」「明太子」「エビの卵」「カニの卵」などは絶対に口にしないし、視界にもいれたくない。あの小さなボツボツした姿を見ると、背筋がぞくぞくし、ちょうど「リング」という映画で井戸から貞子が長い髪の毛を垂らしながら這い上ってくるシーンを見ているような気になる。もしくは「呪怨」で喫茶店のテーブルの下をのぞいたら俊雄が体育座りしているのを見つけたかのような感じである。
はるか昔、会社訪問で伺った自動車会社の関連企業の工場長さんが、すました顔をしながら「グー」とお腹を鳴らしたわたしに気を遣ってか、特上のお寿司を注文してくれたことがある。すみません。わたしは、当時、お寿司は、「カッパ」か「お新香巻き」「かんぴょう巻き」「お稲荷さん」「卵」しか食べられませんでした。と、と、特上って...。
当然特上寿司のネタは特上である。まちがってもお新香巻きなど入っていない。きれいな桶に入ったお寿司は「いくら」「数の子」「ウニ」「中とろ」(今はマグロは食べられます)などが綺麗に並べられていたが、どれもわたしの食欲をそそるものではなかった。いやお腹は空いていたけれど、食べられないものばかりだったのだ。そういえば自分の親にも「まあちゃんとお寿司屋さんに行くと経済的でいいわ」と言われたこともある。えへへ、親孝行な娘でした。誰にも言われたことないので自画自賛しています。

そして最近、自分の体にボツボツが出た。それは多分少し前に血尿が出たため、泌尿器科を受診して処方された抗生物質による薬疹だったのだが、自分の体に出たものを見てはぞくぞくするのは最悪である。
お風呂に入った時も、鏡に映った自分の体を見ないようにし、ゾクゾク感を体験しないようにするが、靴下を履くときなどどうしても足を見る必要がある時は、視線をそらして履いていた。したがって靴下のかかとが足の甲の部分に来ていたことは数知れず。まあ、気づく人が誰もいなかったからいいとする。
わたしはなぜ「ボツボツ」恐怖症になったのだろうか。突然その理由を知りたくなった。それには苦手な「ボツボツ」の嫌い度から考えるとわかるのではないかと思い、昔の記憶をたどり始めた。

「ボツボツ恐怖第1位」
魚卵 なかでも「子持ちシシャモ」の子持ち部分である。これは想像するだけでも気色が悪い。生家の前は魚屋さんで、威勢のいいおじさんが毎日店先で魚をさばいていたので、幼いころから魚に親しんできたはずだが、なぜか「シシャモ」が食卓に上ることはなかった。そういえば「いくら」も「数の子」も「明太子」も大人になるまで食べたことがない。(大人になっても食べていないけど。)これはおそらく母親の好みだと気づいたのは、母親がかなり偏食だったと理解したほんの15年ほど前のことである。もしかしたらこれは遺伝なのかもしれない。そうか、母親も魚卵嫌いだったんだ。結論出ました。

「ボツボツ恐怖第2位」
じんましん わたしは幼少期しばしば「じんましん」を患った。当時はすぐに医者に行くことはなく、まず「卵」「魚」が原因だと両親に言われ、じんましんが出ている時は、ひたすら祖母が作った胡瓜の塩もみと白ご飯を食べていた覚えがある。最初1つぽつりとできて、「蚊に刺されたのかなあ」などと思って、カリカリ掻いていると、その周りに2つ、3つとポツポツが増える。掻くのをやめるという選択肢を思いつかず、ひたすら掻いたり、爪で十文字に跡をつけたりしていると、そのポツポツはある時から大きな塊に一体化し、まるで肌に一つ山ができたような状態になる。それが体のあちこちで起こり始める。あ、ここも痒い!あ、そこも痒い!全部痒い!
こうなると、「じんましん」決定である。母親は「だいぶ良くなったよ」とわたしには言うものの、狭い家の違う部屋から「今度は頭にまで広がったわ」などと言うのが聞こえてくるので、少しもいい状態になっていないことを知る。痒い、しかし掻いても広がるばかり...。この恐怖を何度味わったことだろう。したがって先だっての薬疹の時もその恐怖で、ボツボツには一切触れなかったのだ。
幼少期の辛い体験という結論出ました。

「ボツボツ恐怖第3位」
剃り残した髭の図 髭剃りのCMで「2枚刃で隠された髭の根もきれいに剃り切ります」という時に、剃り残してある髭の絵が映ることがある。あれがどうしても直視できない。肌からぬるっと伸びている黒い棒状のものを髭に例えるあの絵は必要なのだろうか。しかしこれはあまりボツボツと関係ないかもしれない。しかし無駄な突起物で同じ類に入ると思う。
生まれた時から、髭の薄い父親しか家にいなかったことも影響しているだろうか。6人家族で男性は父親しかいなかったからなあ。思春期になにを一瞬血迷ったのか、「胸毛」「もみ上げ」のある男性に憧れたのは、ないものねだりだったのかもしれない。ちなみに今は韓国映画の主役のようなツルリとした肌がタイプです。じゃあなぜゾクゾクするんだろう。結論出ません。

というわけで「ボツボツ」はわたしにとって最上級の苦手なものであり、もしも何か悪いことをして、万が一にも「拷問」をして真実を吐かそうと思ったら、これを活用すればすぐに話します。それは確実です。
そして昨日、さらに恐怖を感じるものを知った。それは「ギザギザ」である。
「ちっちゃなころから悪ガキで、15で不良と呼ばれたよ」
チェッカーズは二度とグループを組まないでしょうね。いや、それではなく、何かの断面でギザギザしたものに対し、「ボツボツ」と同じようにゾクゾクっとしてしまったのだ。それは夕方のニュースで流れたエイの切り身の映像だった。一瞬でそれは起きた。

「このエイはこのように切りますと大そう美味しくいただけるんです」

見せないでほしい。別にエイを食べなくてもうん十年も生きて来れたし、この先も食べる機会などあるはずもないのだから。「ボツボツ」と「ギザギザ」はこの先絶対に見たくない。もしそれが目の前に現れたらギュっと目をつぶる。この覚悟は誰にも変えられないと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?