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やっててよかったと気づくのは遅くてもいい

人が一つのことを続けることは結構難しいことだと思っている。そういうわたしも「おとなのピアノ」は1年余り、「エクササイズ」は2年足らず、自宅での犬のトリミングも2年足らずでやめてしまった。そこには家族の病などいろいろな状況の変化も重なっていたけれど、その後もう一度やる気にならないのである。

忍耐、根性、努力という文字とはかなり遠い距離にいた息子は、上の息子の影響で小学校2年から近所の少年野球チームに入団した。同級生も数人一緒に入ったので、本人は「日曜日に堂々と同級生と遊べる」感覚だったようだ。最初のうちは低学年の団員は、バットの持ち方やボールの投げ方などを、コーチや先輩の団員の教えもらう。すると上手い子はあっという間に上達し、低学年ながら上級生チームの試合に出ることもあった。しかし息子の学年の団員は誰一人としてそのチャンスはないどころか、日曜日に練習に来ない子まで出始めたのだ。練習に来ないと上達しないのは当然で、そうなるとますます練習から足が遠のく。時折やって来ると、コーチや監督が

「よく頑張ってきたな!」

などと褒めてくれるけれど、やはり練習を始めるとつまらなそうな
顔をし始めるのだ。
ある時、息子はノックを受けている時に一つもボールが拾えなかった。

「大丈夫だ。がんばれ!」

などというコーチの声を背に受けながら、息子は外野に転がったボールを追って行ったかと思ったら、そのままグローブを置いてどんどん遠くに歩いていく。

「あいつ、どうした?」

コーチや付き添いの親たちがひそひそ話始めた頃、遠くにいる息子の声がチラっと聞こえた。

「もう、ぼく、野球なんかやめて帰る!」

出た!こうなると本当に家まで帰ることがわかっているので(このグラウンドから家までは徒歩30分ほど)わたしは急いで息子の後を追って行った。グラウンドの周りは休耕田が広がり、そのあぜ道をぶかぶかのユニフォーム姿の息子が走っていく。速い!実は息子は足だけは速かったのだ。しかしここで帰すわけにはいかない。わたしも全速力で、あぜ道の雑草を踏みながら走り続け、ようやく息子をとらえることができた。

「だめだよ。最後までいないと」

得意の手足バタバタ攻撃には慣れているので、お腹のあたりを抱え、ずるずるときた道を戻っていく。ほう、ようやくグランドに到着。監督やコーチがあれこれなだめて息子の機嫌も良くなり、その日も無事に最後まで練習に参加できた。そんな日々が高学年まで続き、6年生になった。
6年生になると、夏休みに市の軟式野球チームのエースは淡路島に遠征し、淡路島の野球チームと交流試合をするのが常だった。各チーム「エース」を選抜するのだ。ところが息子の学年はみんなとうに辞めてしまい、息子
1人しかいなかった。結局淡路島遠征メンバー=チームのエースになったのだ。
ここから先の市の軟式野球チームのエースメンバーとの練習風景については書く必要もないと思う。だんとつ下手くそだ。市のチームでも既に高校野球を目指している子供は体も大きいし、キャッチャーはサインを出せるし、(息子のチームではサインは覚えられないので監督の「声」がサインだった)ピッチャーは牽制球も上手く投げてくる。レベルの違いは歴然だった。
チームは2つに分かれ、選抜チームとそこからもれた選手のチームとなり、毎週日曜日練習をし、そして忘れもしない8月13日に淡路島遠征へと向かった。
淡路島の野球チームも1軍と2軍に分かれていたが、とにかく上手い!
ただ礼儀正しく、初めて会ったわたしの息子たちにも親切で、失敗しても

「次があるよ!」

と気軽に声を掛けてくれる。
前日息子たちは地元の少年野球の選手の家に1,2人で泊ったのだが、それもすごく楽しかったようだ。淡路牛や海産物をふるまって歓待してくれたという。
さて、試合はというと選抜チームはエースの頑張りと、キャッチャーの強肩で、何と勝ってしまった。これには監督も大喜びだった。そして息子のいる選抜から漏れたチームと2軍との対戦になった。
もちろん力の差は歴然だし、そもそも息子はベンチウォーマーだ。この対戦は5回で終了だったので、あと1回の守備と攻撃で終わりという時に、遂にその時はやって来た。息子の名前が呼ばれ、レフトの守備につくことを告げられる。
神様、仏様、キリスト様、阿弥陀如来様、アラー様、お願いですからレフトにボールを飛ばさないでください。これほど強く願ったことはあまりないと思う。そしてそういう時に限って願いはかなわないのだ。

「カーン」

木製バットの音が響くと淡路のチームの少年が撃ったボールは、なんとレフトに飛んで行った。わたしは顔を覆って、でもちょっとだけ指を開いてのぞいていた。ああ、後逸して大ホームランになるんじゃないかと。
しかしなんということでしょう。息子が手を伸ばして広げたグローブの中にボールがしっかり収まったのだ。一瞬シーンとなった後、

「わー。えらかったね!」

という歓声と遠くの方で手を振る息子の姿が見えた。

「こういう一瞬があるから野球って楽しいよね」

一緒に来たお母さんがわたしに話しかける。そうだ、何かできた時の喜びはやってみないとわからないのだ。その裏の攻撃で息子は当然三振だったがそれでも彼の顔は少しだけ自信に満ちていた。

その後中高と野球を続けたものの一度も選手になることはなかったし、高3の時唯一代打を任せられたとき、第1球目に左手の甲にボールをあててしまい、そこを骨折してしまった。結局彼の野球生活はそこで終わった。
しかし今でも「やっぱり少年野球していてよかった。」としばしば言う。そして当時の仲間とは時折飲みに行く間柄のままである。あぜ道を帰った話は笑い話に変わり、そしてこれからもずっと続く友人関係を築けた野球をわたしも彼も大好きである。

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