実況小説「Pairs」
北京五輪のとき、フィギュアスケートペア・三浦璃来選手&木原龍一選手の演技に感動し、思わず書いた小説です。
北京五輪のフリーの彼らの視線のやりとり・演技にそって、勝手に心情やこれまでのヒストリーを重ね合わせて創作しています。動画を見てから読むと実況中継のようで面白いかもしれません。
下記から彼らの演技が見られます。
いつものようにハグをした。
「全ミスでいこう、全ミスで」
「うん」
返事はするものの、彼女の表情はまだ硬い。二人手を取ってリンクに滑り出す。スタート位置に着くまでまだ間はある。彼はもう一度、彼女を笑わせようとする。
「全ミスね」
「うん、うん」
わかってるってば、というように彼女は笑う。でもつないだ手が震えている。彼は子をあやすように二回つないだ手を揺らした。世界一勝気な女の子の手。何千回も繋いだ小さな手。引き寄せて肩を抱く。
「ここまで連れて来てくれてありがとう」
彼女は思わず吹き出す。いつだって手を引いてくれたのは彼のほうなのに。彼女の本当の笑顔に、彼がやっと安心したのを見て、そうか、この人を安心させるのは私の仕事だった、と思う。エネルギーが満ちていく。二人の名前が呼ばれ、両手を広げて滑り出す。
スタートポジションに着く。二人並び、両膝を氷の上に着いて頭を寄せ合う。羽を休める小鳥のようにも、留守番をする幼い兄妹のようにも見える。彼の匂いは彼女が誕生日に送った香水だ。
曲がかかる。くるりと彼女が彼の腕を離れ、でも手は繋いだまま見つめ合う。
「できる」
「できる」
全ミスでいいよね、と確認し合った二人が、同時に思った。
だってあなたとだから。
――トリプルツイスト
空中で彼女が花びらのように舞い、そして雪原に降りる。いつも彼は彼女にとって大樹だった。
――トリプルトーループ、ダブルトーループ、ダブルトーループの三連続
「できた」
「できたね」
後ろから彼が追い付き、両腕を包む。声にしなくてもわかる。彼はきっと嬉しそうに笑ってる。
ほらね、
振り向いてステップを踏むと、やっぱり彼は笑っている。だから彼女も笑ってしまう。「しっとりした曲なんだから」と何度言っても彼は楽しくなると笑ってしまうのだ。
――グループ5アクセル ラッソー リフト
「絶対に落とさないから。落ちても絶対俺が下敷きになるから」
ペアが初めてでもない彼女に、彼は何度も言った。
――股抜きからのお姫様抱っこ、そしてスロートリプルルッツ
「これワザっぽいよね」と、二人でキャッキャ言いながら練習したことを思い出す。
――ペアコンビネーションスピン
形を複雑に変え続けながら、ずっと繋がりあっている。
今度は彼の背中を見ながら彼女が滑る。広い背中。吐くまで食べながら彼女を持ち上げ、解き放つために造った背中。
彼の影のようにぴったり同じ動きをしながら、彼がいま笑っているといい、と彼女は思う。曲調に合わせて、とあれほど言っている彼女なのに。だって、自分自身がいま笑っているから。
――トリプルサルコウ
昨日はトーループが抜けてしまった。でもいまは、ウソみたいに飛べる。
目の端にコーチが飛び上がって喜んでいるのが見える。音楽が高まっていく、すべてがうまくいく気がさっきから泉のように湧いてくる。手を繋ぎ、彼を見る。
「ねえ、できたでしょ、今の見た?見た?」
子どものように笑いかける彼女に
「見た、見た」
彼もまた父のように目で答える。
――グループ5リバースラッソーリフト
ああ、もう、楽しくなってきた。
彼女も彼も、順位のこともオリンピックのことももはや抜け落ちていた。ただ、喜びだけが満ちていく。氷のしぶきとともに迸っていく。
――スロートリプルループ
彼のもとから彼女が飛び立ち、そしてまたすぐ彼が迎えに行く。
ああどうしよう、嬉しさがこみあげてくる。
落ち着こうとするのに、彼が彼女の三倍笑っているから、もう止まらない。
ずっと、こうやって、ふたりで、滑りたかった。
こんな風に、滑りたかった。
それがいま、できている。
――フォワード インサイド デススパイラル
彼が最初に組んだ相手にけがをさせてしまい、部屋から出てこれなくなったデススパイラル。なぜなんだろう。彼女とだったら、怖くない。
ああ、そうか、彼女を笑わせてきたけど、それだけじゃなかった。
「ありがとう」
「ありがとう」
二人は手を繋ぐ。彼が彼女を持ち上げる。
――グループ4リフト
この人を信じなかった瞬間が一瞬もない。
この人が自分を信じさせてくれた。
――コレオシークエンス
旋律はさらに高まり、それに焚きつけられるように会場のざわめきも盛り上がっていく。
あーこりゃやばい。まじ、楽しすぎるんだが。
二人で雪野原の子犬のように追いかけ合う。すべてのカードがぱたぱたと開き、運命が報われていく。
最初はシングルとして、それからペアとして、ずっと滑り続けた。彼はコンビ解消を二度経験し、もうあんな思いはできない、させられない、と思った。スケート場の貸靴業務をしながら、でもずっと思っていた。
滑りたい。
スケートがしたい。
そこに彼女が現れた。おずおずと差し出された手をとった瞬間に、
そうだ、あのときからずっと、わかっていた。
「この人となら、行ける」
彼女を抱きとめ、最後のポーズを決める。歓声と彼の息と彼女の拍動で、会場全部が震えているようだ。
ここまで、
ここまで、きた。
彼女を連れてこられた。
彼は彼女にしがみつき、泣く。
ずっと笑顔でいてくれた彼の、耐えきれずこぼした涙に、彼女も涙があふれる。彼へ手を伸ばし、抱きしめる。今度は彼が子どもになって声を出して泣きじゃくる。彼女は九つ上の彼の母親になり、背中をさする。
ありがとう、ありがとう、
同じ言葉をふたりで繰り返す。
そして立ち上がり、もう一度、抱き合う。彼女の鼓動と彼の鼓動がリンクしている。
私たちは、ペアだ。
ペア・フィギュアスケーターだ。
この五輪で、ラジオの実況中継でフィギュアスケートを「聴く」という面白さも知りました。実況をさらに心情まで入れ込んで、小説にできないだろうかと「実況小説」というものを作ってみた次第です。
実在の人物から着想を得ていて、それが推しでもあるので
ご迷惑にならないことを祈りつつ。
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