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ひとひら小説 「花子の今日あったこと」

私の電車はいつも23時以降を走る。

電車のなかでフェイスブックを見る。今日あったこと、昨日あったこと、みんなの23時以前。

「最近どうですか?」
今日、ランチしてるとき、後輩が遠慮がちに聞いた。
「どうってなにが」
「プライベートのほうは……」
「んー。また電話しちゃったんだよね、あのひとに」
「あー」

後輩(新婚)が心底、気の毒な顔をしたから、私は慌てて補足情報を付け足す。たとえば、気の毒さより、私の一途さ、それだけの大恋愛だったこと、そういうのが伝わるように。

「なるほどー、私にはわからない二人のことがあるんでしょうね」

この後輩をみてるといつも、「無遠慮な遠慮」てことばが浮かぶのだった。

スマホを見るのに飽きてなんとはなしに隣に目をやれば、男がなにやら紙を広げて見入ってる。記名欄が二つならんで薄紙のそれは、婚姻届だった。

それを私も取りに行ったことがある。駅前の区民センターに。こんな危険物が駅前で受け取れることに驚いた。何か聞かれるかと思ったけど、事務の人は当たり前のような顔でそれをくれたのだ。

プロポーズするつもりだった。
「やっぱり、結婚しようよ。してしまおうよ」
別れ話で呼ばれたのはわかっていたのに、我ながら狂ってた。あのあとあれは、捨てたんだっけ……?

隣の男は婚姻届をたたんで通勤カバンに入れる。この人はフェイスブックに投稿するだろうか。これから起きることを。

(お前はうまく行くがいいよ)

そう思った自分にびっくりしたら、いつのまにか駅に着いていた。

今日あったこと。昨日あったこと。

24時間スーパーへ行き、納豆とヨーグルトをかごに入れてレジに向かう。スーパーの裏にこっそり停めた自転車のカギを開ける。

今日あったこと。今日あったこと。

そのとき、光った。ちかちかと星が見えた。振り返るとスーパーの巨大ゴミ箱に、廃棄処分になったそれが、新聞紙に包まれたまま、嘘みたいに、あった。力強く、あったのだ。

いつもの坂を立ちこぎしながら、今あったことをやっぱり私は後輩に言わないし、フェイスブックにも書かない、と決めた。そのほうが「勝ち」だと思った。何に勝つのかわからないけど。
隣の男よ、ちゃんとやれよ。彼女を幸せにしろ。幸せになれ。知らんけど。

自転車のかごには、ひまわり。

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