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“祈る“ということ



私はキリスト教徒でもイスラム教徒でもありません。
ヒンドゥー教徒でもユダヤ教徒でもありません。

ですが、海外を旅していると、私がどの宗教や宗派を信仰しているのかと聞かれることも少なくありませんでした。


一般に、日本人は無宗教の人が多いとよく聞くけれど、当時の私は自分が無宗教だというのもなんだか違うような気がしていました。

だって、日本という国に生まれ育って、年の初めには神社にお参りするし、たぶん自分が死ぬ時にはお寺で供養してもらうのだろうと思っていたから、その手の質問に出くわした時は「神道と仏教のミックスかな」なんてお気楽に答えていました。

ですが、だからといって明確な自分の信仰というものがない私にとって“祈る“という行為はどことなく縁遠いものでした。

子どもの頃、じゃんけんで負けそうになって「困った時の神頼み!!」などと言ったことはあるけれど、別に特定の神様を信じているわけでもなかったし、中学高校大学と教育を受けるうちに科学信仰なんていうものに染まっていったような気さえします。


そんな考えを持ちながら、私はキリスト教徒の多く住む南米大陸を旅したのでした。

南米ではどこの国でも、どこの街でも、教会が目につきました。
教会に入ると、美しいガラス窓の細工に目をやったり、讃美歌に耳を澄ませたり、旅人として楽しいことも多いのですが、私はその中に入る度にきまって不思議な気持ちになりました。

そして、時には傍観者としてだけでなく、“祈られる“という経験もしました。


アルゼンチンで私の人生史に残る衝撃的なハグをくれたJose(この話はまたいつか詳しく書きます)、暴動後の荒廃したチリの街で集会を開いていた神父さん、1ヶ月の間私に幸せな時間をくれたボリビアの子どもたち。

「あなたの為に祈るよ」

みんなそう言って、祈りを捧げてくれました。


そして、その度に私はまた不思議な気持ちになるのでした。



“祈る“って、どういうことなのか、今になっても私にはわかりません。

でも、旅の中での“祈られる“という経験から、それがただの気休めやまやかしではなく、血の通ったエネルギーを持っていることだけは確信しています。

“祈り“は伝わる。

“祈り“は届く。

そう確信しています。


私にとって“祈る“ことは誰かを想って、その人への愛情で胸をいっぱいにすることなのかもしれません。

そして、その想いは、どういうわけか、巡り巡ってちゃんと伝わるんだと思っています。


銀行口座みたいに「〇〇さんから幾らの祈りが入りました」なんて可視化できるわけでははないけれど、

私が今こうして生きていられて、日々のささやかな幸せを味わえているのは、どこかで誰かが祈ってくれてるからなんじゃないかなって思ったりするのです。

そして、それは私のよく知る大切な誰かの祈りだったり、出会ったこともない遠い国の見知らぬ誰かの祈りだったりするのでしょう。
“祈り“は時間も空間も超えてゆきます。


というわけで、私もときどき誰かの為に祈っています。
明確に誰かのことを思い浮かべることもあれば、ぼんやりと世界のどこかでひとつ幸せが増えたらいいな、なんて思ったりする時も。


たぶん、明日もWiFiとかと同じくらい誰かの“祈り“が世界中を駆け巡ってるんじゃないかなぁ〜。

WiFiより“祈り“がたくさん駆け巡るときがきたらいいな〜。



〈ボリビアの教会の中でメモしていた祈りについての詩〉

涙を
洗い流す場所
痛みを
洗い流す場所
苦しみを
洗い流す場所
憎しみを
洗い流す場所
罪を
洗い流す場所
悔やみを
洗い流す場所
どれほどの人が苦しんだだろう
どれほどの涙が流れただろう
全てを包み込んで
全てを癒してきたこの場所に
私は今日愛を見る
手を繋ぎ歩く父と子の
肩寄せ祈る母と子の
ゆっくりと暖かく煌く愛を見る
この時代に生まれてよかったと思った
心の中にある
いつか誰かがくれた蝋燭に
暖かい灯が灯るのを感じた


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