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小説『しあわせな音』

おいしいものから生まれる小さなストーリー」は、自分の好きなおいしいものから想像したストーリーを綴っていく掌編小説集です。今回のストーリーの種となるおいしいものは、銀座ウエストの「リーフパイ」です。

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鳥のさえずりが聞こえてくる。
丸めた毛布のうえでまどろんでいたマロンは顔をあげ、耳をぴょこんと立て、鳥たちの奏でる美しい音色に耳を傾ける。ピチピチピチピー。高く澄んだ声で、鳥たちが楽しそうにおしゃべりをしている。

「あら、雨がやんだのね」
絵筆を持つ手をとめて、彼女が窓の外に目を向ける。

「もう、こんな時間か…」
そうつぶやいて、彼女が立ち上がるのと同時にマロンはゆっくりと起き上がり、お尻をあげてうーんと前脚を伸ばし、そのあと背中を反らしてうーんと後ろ脚も伸ばす。

「涼しいね、今日は」
窓辺に立って、彼女が言う。その足元でマロンは「そうだね」と顔を見上げて同意をしめす。レースのカーテンが柔らかく揺れ、雨の匂いを微かに含んだ風が部屋のなかを通り抜けていく。

「じゃあ、そろそろおやつにしよっか」
彼女はマロンにそっと微笑みかけると、ペタペタとスリッパの音を床に響かせながらキッチンに行き、薬缶に火をかけ、紅茶を淹れる。そしてマロン用のクッキーを冷蔵庫から取り出しお皿にうつすと、それらをトレイにのせて、リビングルームのソファテーブルまで運ぶ。そのあいだじゅうマロンは、彼女の足にまとわりつくようにして、その成り行きをじっと見守っている。

「今日は骨型のクッキーよ」
そう言って、彼女が床のうえに置いたのはマロン用の黄色いお皿だ。そのうえには骨型のクッキーが三つばかりのっている。マロンが最近気に入っている、かぼちゃの味のするクッキーだ。マロンはでも、すぐには食べない。お皿の前で大人しくお座りをしている。
彼女は最初、そんなマロンの姿をみたとき、とても驚いた。「遠慮しているの?偉い子だね」と感心したような声で言ったあとすぐにはっとして悲しげな表情に変わり、「ごめんね、そうだったね。大丈夫。ここではおやつ、安心して食べていいんだからね」
そう言って、マロンの背中を励ますようにそっと優しく撫でたのだった。

けれどもマロンは今、むかしとちがって怯えているから食べないわけではない。彼女ときちんと目が合ったところで食べることにしているだけで、つまりマロンは元来、そのくらいお行儀の良い女の子である、ということなのだ。

「じゃあ、いただきましょうね」
彼女の視線を捉えたマロンは「ワンッ」と甲高い声をあげ、骨型クッキーにかじりつく。小さな身体のマロンにはなかなか噛みごたえのあるクッキーだ。ガジガジと、マロンが夢中になってクッキーにかじりつく様子を彼女は熱い紅茶を飲みながら嬉しそうに眺めている。

「あ、そうだ」
ふいに思い出したように彼女はソファから立ち上がり、キッチンからクリーム色の箱を持ってくる。

「わたしも今日はこれを一枚食べようっと」
そう言って、なかから取りだしたお菓子をひとつ口にする。

サクッ。
軽やかな、音がした。
サクサクッ。
あ、この音。
マロンは耳を立て、その音のする方へと視線を向けた。
あ、と思う。
やっぱり、とマロンは思った。
しあわせな音のする、あのお菓子だ、と。

❀❀❀

マロンがそのお菓子の音をはじめて聞いたのは、マロンが彼女の家に引き取られて一月ほど経ったときのことだった。

今までいた環境とうってかわり、マロンの新しい居場所は平和と安らぎ、そして淡い光で満ちていた。かつて聞こえていた怒鳴り声や大きな物音は一切なく、床はきれいに磨かれた温もりある木材で、そしてマロンの寝床は冷たいコンクリートのうえではなく、清潔で柔らかな毛布のうえだった。

マロンは初日こそ緊張したものの、すぐに彼女にも新しい家にもなじむことができた。とはいえはじめのころはいつも、彼女が移動すれば、焦るようにそのあとを追っていた。そうしないとかつてのように、知らない草原のうえに一生置いてきぼりにされるような気がしたからだった。けれども彼女はたいていの時間、家にいた。絵筆を握り、白いキャンバスに向かい、透明感ある色彩美しい絵を描くことが彼女の仕事だった。もちろん、四六時中一緒にいられるわけではないので、マロンもときどきはひとりで留守番を任されたけれど、それはかつて当たり前にあった孤独や不安と違い、大事な人が帰ってくるのを待つあいだに訪れる静寂と眠気、ただそれだけだった。

愛されていることを実感するマロンは、その見た目も日に日に健康的に美しくなっていった。「マロンはきれいな栗色ね。だってマロンだもの」と彼女がよく膝のうえにマロンをのせては称賛するように、マロンの毛並みはますます美しく輝き、鼻は黒々と濡れて瞳は生き生きと澄んで、マロンは本来そうあるべき姿を取り戻していくのだった。

こうして彼女がマロンを我が子のように愛し、大事に扱うたびに、マロンのなかに潜んでいた恐怖や悲しみは剥がれ落ちていったけれど、食べることに関してだけマロンはどうしても消極的だった。ごはんよ、と言われて目の前に食事を出されても、すぐに旺盛に食べることができず、匂いを嗅いでやめてしまったり、あるいは遠目に見るだけにとどまったりと、食欲があまりわいてこないのだった。それは、マロンがもともと食の細い子だったせいもあるけれど、それ以前に、過去の辛い記憶にいまだ支配されているところがあるからなのだった。

彼女はそんなマロンのためにと、さまざまな食事やおやつを用意しては小さくちぎって手の平のうえにのせてみたり、お湯でふやかして柔らかくしてみたり、またときにはそれらがいかにおいしいものであるかを証明しようと自分も食べるフリをしてみたり、あるいは実際に食べてみせたりしてマロンの気を引こうとしたけれどもやはり、マロンの食欲はなかなか思うようにはわいてこないのだった。

そんなある日のこと、マロンはあの音を聞いたのだった。
いつものように彼女が仕事の合間、お茶休憩に入り、ソファでくつろぐ側でマロンも体を丸めて休んでいると、サクッと軽やかな音が聞こえてきた。見ると、いつもは紅茶だけの彼女が珍しくお菓子を食べていて、その表情がいつになくとてもしあわせそうにみえた。

彼女が手にしていたのは葉っぱのかたちをした薄い茶色のお菓子で、その表面には宝石のような半透明の粒がたくさんのっていた。そして彼女がそれを口にするたびに、サクッとした心地良い音色がマロンの耳の鼓膜を優しく振動させた。

「これね、わたしの好きなお菓子なの」
マロンの視線に気づいた彼女が笑って言った。
「知ってる?これ、二五六層にもなってるんだって。二五六層だよ。信じられない。顕微鏡でのぞけば分かるのかなあ」
そう言って、また嬉しそうにサクッと食べる。

マロンは首をかしげた。彼女の言う意味はよく分からなかったけれど、彼女がそのお菓子のことが大好きだということはマロンにもよく理解できた。そして彼女がサクッと軽やかな音を発するたびに、幸福が淡い光となって、彼女のまわりで弾けるように見える気がした。

しあわせな音―。
マロンはふいにそんなことを思った。軽やかで、甘くて、上品で、そして彼女をあんなふうな素敵な笑顔にさせる音。
今までマロンの耳の奥に残っていた、ひんやりした音でも重苦しい音でもなく、あるいは期待のあとの絶望の音でもなく、それはただ、彼女がしあわせを感じる瞬間に弾ける軽やかな音だった。

サクサクサクサクッ。
それらの音が空気を微かに震わせて、マロンの背中を優しく撫でた。マロンはゆっくりとその場から起き上がり、ソファのそばに行った。そしていつも彼女が用意してくれているマロン用のお皿のうえにある小さなお菓子を何気なくひとつ口にしてみた。さつまいもの柔らかなボーロだった。彼女のようにサクッと軽やかな音は立てられなかったけれど、それは思っていたよりもずっとおいしいお菓子だった。

「マロン!」
彼女はそのとき、ソファから身を乗り出してマロンを見つめた。すごいね、えらいね、食べることできたんだね、と満面の笑みをみせたかと思ったら、今度は急に顔を突っ伏し、涙をぽろぽろ流しはじめた。マロンはびっくりして、すぐにソファのうえに飛び乗り、彼女の涙を舌で丁寧に拭ってあげた。彼女はそんなマロンをぎゅっと抱きしめながら、「マロンはこんなに優しい子なんだから、こんなにいい子なんだから、絶対にしあわせにならないといけないんだから」と言って、マロンのことを何度も何度も祈るように優しく撫でたのだった。

その日以降、マロンは不思議とおやつを食べられるようになった。決まった時間にだされる食事も食べられるようになった。同じ仲間に比べればマロンの食は依然として細いけれど、それでも、マロンが元気に生きるのに十分な量をマロンは食べられるようになった。

彼女は嬉々として、今ではそんなマロンのために色んなおやつを用意する。けれども自分には決まってあのお菓子しか買わないようだ。あるいはいつも誰かに貰っているのかもしれないけれど、ときどきマロンは申し訳ない気持ちになる。だって、自分にだけいつも色んなおやつがあるのに、彼女にはいつもそれしかおやつがないからだ。
 
でも、マロンが今食べているかぼちゃのクッキーが実はマロンの最近の一番の好物であるのと同様に、彼女にとってもそれが一番の好物なのだろうとマロンは見当づけている。それに、心優しい彼女とそのお菓子はとてもお似合いだともマロンは思う。

❀❀❀

「おいしい」
彼女は言う。
今日もサクッとしあわせな音を響かせなから。

「ザラメがこんなについているのに、そんなに甘すぎないの」
彼女はそのお菓子を食べるとき、いつもマロンに感想をくれる。マロンにはその内容は分からなくても、彼女が満足しているのが伝わってくるから、それだけでマロンもしあわせな気持ちになれる。大事な人が感じるしあわせはマロンにとっても、しあわせ、そのものだからだ。しかし、それは彼女にとっても同様で、マロンがおいしそうにおやつを食べる姿は彼女にとってのしあわせで、マロンが咀嚼する音もまた、彼女にとってはしあわせな音にちがいない。

つまり今、彼女とマロンがおやつをするとき、部屋のなかはしあわせな音で満たされる。他の誰にも分からないしあわせな音を、彼女たちは密かに奏であっているのだった。

(了)
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