小説『好物と記憶』
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改札口を出てすぐのところに小さなスーパーマーケットがある。
そこでは他であまり見かけない輸入菓子やお酒、種類豊富なジャムや自家製デザートなどが販売されており、夫は帰りしなによく、そこに立ち寄る。
普段はふらりと店内を眺めて通り、目についた珍しい菓子や酒のつまみを適当に買っていくのだが、夫の今日の目的は一つだった。スーパーマーケット自家製の、コーヒーゼリーを買いにやってきたのである。
些細なことで、妻と口論になったのは昨晩のことだ。
ポケットにティッシュを入れたままのズボンを夫が洗濯カゴに出してしまい、それに気づかぬまま妻が洗濯機をまわした結果、一緒に洗った衣類のすべてが粉々のティッシュまみれになってしまったのである。
そんな惨事を夫が知ったのは帰宅したばかりの玄関先で、妻は夫にくどくど注意を促した。というのも、夫がそれをしでかしたのは三度目のことで、妻としてはもう「うっかり」として見過ごすわけにはいかなかったからだった。しかし夫としては、なぜ洗濯前にポケットの中身の確認してくれなかったのかと妻に対しての不満もあって、謝るどころか、逆にその旨、妻に指摘をしたことで余計に火に油を注いでしまい、結果、昨晩から今朝に至るまで夫妻は険悪な雰囲気に包まれていたのだった。
でもこんなとき、いつも救世主となってくれるのがこのコーヒーゼリーだった。
妻はこのスーパーマーケット自家製のコーヒーゼリーが大のお気に入りで、喧嘩をして腹を立てているときであっても、これを手土産として持って帰れば、たちまち笑顔をみせた。だから当然、今回も妻は笑顔をみせるだろうと夫はたかをくくって帰宅したのだが、妻はゼリーを受け取るなり、悲しげな瞳を夫に向けた。
「これ、わたしの好きなゼリーなの。知ってる?」
もちろん、と夫はうなずいた。だからこれを買ってきたんだよ、と。
「あなたもこのゼリー、好きなわけ?」
そう訊ねられ、夫は再びうなずいた。事実、このゼリーは今では夫の好物でもあった。
結婚前、まだ恋人だったときの妻にこのコーヒーゼリーの存在を教えてもらい、妻の部屋ではじめて食べたときの感動は今でもよく覚えている。夫としては最初、スーパーマーケットの自家製なのだから、と妻のゼリーに対する熱弁に耳を傾けながらも少々いぶかしむ気持ちがあった。しかし食べてみれば、それは思いのほかおいしかった。見た目は、たぷたぷの牛乳ゼリーのなかに立方体に切りとられたコーヒーゼリーが埋まっているためにやけに白く、初見、これコーヒーゼリー?と思うのだけれど、食べてみれば、甘みある柔らかな牛乳部分と苦みある固めのコーヒー部分がうまい具合に合わさって、ちょうど良い絶妙なおいしさを生み出す。うまいな、と思わず夫は口にしていた。それは決して妻への忖度ではなく、単純に夫の口にも合ったからだった。以来、そのコーヒーゼリーは二人のお茶時間の定番おやつとなり、結婚してからも変わらず、夫妻はそのコーヒーゼリーを食べながらたびたび愉しい時間をともにしていた。
しかし今、目の前の妻は、「だったら、もう買ってきてほしくないの」と言った。「こんなタイミングで二度と」と悲しげな声で。夫は動揺した。思わず壁にかかる時計を見たが、「違うの。時間の話じゃないのよ」と言って、妻はイライラした様子をみせた。
「あなた、ここのところいつも、喧嘩したあとにこのコーヒーゼリーを買ってくるの。ちゃんと謝ることもしないで、これで簡単に済ませようとしている」
妻に言われ、夫は慌てた。そんなはずがない、ちゃんと謝っているではないか、と。しかし改めて思い返してみると、たしかに夫は謝罪のしるしとしてコーヒーゼリーを妻に渡してはいたけれど、そのときにちゃんと言葉を添えていたかといえば、決してそうではなかった。
「昔はよくあなたと一緒に、愉しくお喋りをしながらこのコーヒーゼリーを食べていたでしょ。そういう記憶とつながるからこそ、より一層、特別なものでもあったの。でも今は違う。あなたにないがしろにされる悲しい記憶とつながってしまったら、私はこの大好きなコーヒーゼリーを嫌いにならざるをえないのよ」
なおも妻は悲しげな声で続け、夫は絶句した。無論、夫にとってそんな事態は本意ではなく、すぐにでも反論したい気持ちになったが、ここで必死の釈明をしたところでおそらくそれは言い訳として妻の耳に響くだろう。
夫はしばし、内省するように胸に手をあてた。それから不足していた言葉の溝を埋めるように、「ごめん」と素直な気持ちを妻に伝えた。「これからは気をつける。だからまた、このコーヒーゼリーを一緒に愉しく食べよう」と。
妻は黙った。そして真意を確かめるように夫の瞳をじっと見つめると、かすかに息を漏らし、そして―、
「食べ物と記憶って、結びつきが強いのよ。だから好物の場合はとくに、取扱いに注意が必要なのよ」
と、まっすぐな眼差しを向けたまま、諭すような口調でそう言ったのだ。
あの晩、ぎこちない雰囲気を拭えないまま、食後、二人でコーヒーゼリーを食べてからしばらく、夫はそれを手土産として買っていない。そして夫妻の日常はいつもどおりの平穏な状態に戻っていた。が、夫の胸にはまだあのときの妻の言葉がわだかまっていた。
悲しい記憶と結びかかっているその紐を、ほどくタイミングは一体いつなのだろう―。
スーパーマーケットを尻目に駅ビルを出て、家に帰る途中、夫はふいに夜空をみあげた。うすいうすい三日月が、微笑むように浮かんでいた。夫はそこに、妻の笑顔を見た気がした。そうだ、久しぶりに今日、あのコーヒーゼリーを買っていこうか。何気ない日常の、意味を持たない贈り物。ただ、君の笑顔が胸に浮かんだから、と伝えてみたら、はたして妻は以前のような笑顔を見せてくれるだろうか。
そんな思いつきに気恥ずかしさを感じながらも、夫は急いで踵を返し、スーパーマーケットに向かう。
悲しい記憶の紐を解き、愉しい記憶に結び直せるタイミングはきっと今日なのだと、自分につよく言い聞かせながら。
(了)
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