小説『あの夏の恋』
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あの夏、榊くんはしょっちゅう我が家を訪れては、兄と二人でゲームに興じていた。就職活動を終え、時間を持て余した大学四年生の彼らは、当時高校生だった私にはかなり大人に見えたけれど、ゲームに夢中になっている姿はまるで無邪気な小学生のようにもみえた。私はゲームにこそ参加しなかったけれど、榊くんが来たときだけは兄の部屋に行って、画面のなかでせわしなく動く小さなキャラクターたちを一緒になって目で追った。そしてその視線はときどき、気づかれないよう、そっと榊くんに向けられた。まつ毛の長い、華奢な体つきの榊くんに。いかにも優しくて、おとなしそうな榊くんに。
榊くんはでも、私の視線にはまるで気づいていないようだった。榊くんの視線はだって、いつも兄の方へ注がれていたからだ。ガサツで、鈍感で、やたら声の大きい兄の横顔に。あるいは、図体と態度ばかりのでかい、兄のその背中に。
私はくやしかった。なぜ、榊くんの恋する相手が兄なのだろうかと。私の恋する相手の恋する相手が、なぜ、よりによってこの兄なのだろうかと。
榊くんは兄に恋をしていた。そして私は榊くんに恋をしていた。どちらも一方通行の思いだった。世の中うまくいかないな、と私は思った。口には出さなかったけれども、何度もそんなことを思っては、夜中ひとりで泣いた。
榊くんはうちに来るとき、必ず手土産にくず餅を買ってきてくれた。それは無論、兄の好物だったからだ。兄は喜んで、くず餅を食べた。私もご相伴にあずかって、一緒にくず餅を食べた。それはそのむかし、祖母の家でだされるおやつの定番で、そのときは平たい箱入りのくず餅だったけれど、榊くんが買ってきてくれるものは食べきりサイズのカップ入りのくず餅だった。
「これならきっちり一人分だから、昔みたいに喧嘩しないですむな」
兄は言った。はたして喧嘩した記憶なんてあったっけ、と思ったけれども面倒臭いので私は、そうだね、と言っておいた。榊くんはそんな私たちのやりとりを微笑ましそうに見つめながら、「本当に二人ともくず餅が好きなんだね。くず餅兄妹だね」とほのぼのした感想を述べた。
夏休み。両親が共働きのため、我が家には兄と榊くんと私しかおらず、ゲームのあとはこうして冷房を効かせた部屋のなか、三人で円陣を組んでくず餅を食べるのがその夏の定番となっていた。ほんのわずかな時間だったけれど、私は榊くんと一緒にいられることが幸せだった。すぐそばで榊くんの気配を感じ、榊くんの無邪気な笑顔を見ることができる。ときに榊くんの兄に対する潤んだ視線に否応なく気づき、複雑な思いにかられることはあったけれども、三人でくず餅を食べるこの時間が、このままずっとながく続いてくれたらいいなと思っていた。
けれども、そんな時間はあるとき、突然、終わりを迎えるのだった。
その日もいつものように三人でくず餅を食べ、夕方頃になり兄と榊くんが家を出て、私ひとりが自室に残って夏休みの宿題に取り組んでいると、いつもならそのままカラオケや飲みに行って夜遅くになって帰ってくるはずの兄が、その日に限ってやけに早く帰ってきた。見ると、兄の顔は真っ赤になっていた。酔っぱらいの赤ではない。兄は子供の頃から困惑したり混乱したりすると、血圧が上昇し、すぐに顔も耳も真っ赤になるのだった。
「珍しく早いね」と顔をだすと、「お、おうっ。た、たまにはな」と兄はうわずりながらも必死に平静を装って自分の部屋に駆け込み、私はすぐに事態を理解した。
榊くんはきっともううちには来ない。そう思った。
のそのそと私はベッドの上でうずくまり、毛布にくるまり、そして静かに泣いた。榊くんは勝負にでたのだ。学生最後の夏。兄の鈍感さから言っても結果は見えていたはずだったけれども、それでも榊くんはついに勝負にでたのだと思った。
私は泣いた。声を押し殺して泣いた。なんの涙か分からなかったけれども私の目からはとめどなく涙があふれ出た。すると、薄い壁をはさんだ隣の兄の部屋からも小さな嗚咽が聞こえてきて、思わず私はぎょっとした。兄が泣いている。がさつで鈍感な、あの兄が泣いている。兄はきっと、期待に応えられない自分に不甲斐なさを感じていたのかもしれないし、あるいは自分の鈍感さを呪っていたのかもしれない。鈍感でがさつなくせに、へんに優しくて繊細なところのある兄。そんな兄のことを榊くんはきっと好きになったのかもしれないな、とふいに思ったら、また自然と私の目からも涙がぽろりとこぼれ落ちた。いずれにせよ、私も兄も、その意味合いは違っていても、榊くんのことが好きだったのだ。世の中うまくいかないな、と私は思った。思ったあと、小さく口に出してそう言ってもみた。
その日以降、やはり榊くんはぱったり我が家に来なくなった。と同時に、私も兄も、大好きなくず餅をぱったり口にしなくなってしまった。榊くんについて兄から言及することもなければ、私からあえて問うこともなく、ただただ時間だけが無情に過ぎていった。
それからしばらく経ったある日のことだ。
放課後、私は寄り道したデパートの地下で、偶然榊くんに出会うのである。
榊くんはくず餅を販売している店の前にいた。ショーケースをのぞきこみ、少し首をかしげて迷っているような仕草をみせていた。一瞬、私は逃げようとした。でもすぐに、なぜ逃げるのだろうかと思いなおし、恐る恐る榊くんの方へ近づいてくと、榊くんはちょうど「これ、一つください」と店員さんに告げているところだった。私は声をかけようとしたけれどもタイミングがうまくつかめずそのままうしろにまわりこみ、そしてそのつもりはなかったが、振り向いた榊くんをひどく驚かせてしまった。
「わっ!ミキちゃん!びっくしたあ、どうしたの?」と榊くんは目を丸くして、それからまたあの無邪気なかわいらしい笑顔をみせたので、嬉しくなってしまった私は思わずお腹を抱えてけらけらと笑い声をあげてしまった。
それからどちらから言い出したかは覚えていないが、なんとなくの流れでデパートの外にある休憩所に行って、ベンチに腰をおろした。夕暮れどきの街中を行きかう人たちの姿を眺めながら、ふと、榊くんは私にすべてを打ち明けてくれた。私はうまく言葉を返せず、ただ無言でうなずいてばかりだったけれど。
榊くんはやはりあの日、兄に告白をして振られていた。けれど後日、兄から「友達でいたい」と切望されたため、そしてそれは榊くんも希望することだったため、二人は今も変わらず友達でいるという。
「まあでも、まだちょっと、ぎこちなさはあるけどね。たまにあいつに会うと、自分のここが痛むところもあるし」と、榊くんは胸のあたりをさすってみせた。私の胸のあたりもちょっと痛んだけれど、胸に手を当てる代わりに、私は自分の膝の上にのっていた鞄と紙袋をぎゅっと自分の胸元に抱きよせた。榊くんは私と兄のためにと、くず餅を買ってくれた。自分の分を購入したあと、くず餅兄妹への差し入れとして、追加でカップ入りのくず餅を二つ買ってくれたのだった。
「でも、今も兄と友人といてくれて安心しました」
それは私の本心だった。兄と榊くんは本当に仲が良かった。兄が今まで連れてきた友人のなかでも特に兄と榊くんは気が合うように見えた。だから、このまま二人が離れ離れになってしまうのは、部外者の自分にとっても淋しいような気がしていた。
「さすがにでも、また家にまで押しかけるのはためらうから、だから今日、久しぶりにミキちゃんに偶然会えてよかったよ」
榊くんは照れたように言った。榊くんの膝の上にもくず餅の入った袋がのっていて、それはもちろん榊くんの分で、榊くんも兄の影響なのか、今ではくず餅が好きになってしまったのだという。けれど兄との件があって以来ずっと食べるのをためらっていて、けれど久しぶりに買おうとしたところに偶然私が現れたのだと榊くんは言った(さすがだね、と榊くんは笑ったけれど)。
「これ、本当にありがとうございます」
私はくず餅の入った袋をさすりながらもう一度お礼を言った。
「私も兄も、子供の頃に祖母の家でおやつにこれを出されて以来、二人してはまっちゃったんです。あの独特の食感がいいんですよね。黄な粉と黒蜜をかけたときの甘さとか風味とか、なんとなく癖になるというか―」
本当はこの機会に、榊くんのことを好きでした、と打ち明けたかったけれどもそんな勇気もなく、私は榊くんへの思いを告げる代わりに、滔々とくず餅への思いを語った。榊くんはそんな私の話に耳を傾け、「本当に二人のお気に入りなんだね」と微笑ましそうに相槌を打った。
榊くんの優しい横顔。長いまつ毛。それらを見つめていたらふいに、私、この人に恋していたんだなあ、としみじみ思い、そしたらつい、「世の中、うまくいかないなあ」と胸にしまっておいた言葉がぽろりとこぼれ落ちてしまった。幼かったのだ。当時の私はそんなセリフをため息を吐くみたいに自分の気持ちだけに焦点を合わせ、いとも簡単に軽々しく吐き出していた。
でも榊くんは「え?」と笑い、「ミキちゃん、そんなこと思ってるの?高校、大変なの?」と優しく尋ね、「まあ、たしかにね。世の中というか、人生うまくいかないなあって思うことだらけだよね」と言って、遠く空を仰ぎ見た。夕日が落ちて青みがかる透明な空に雲がシルエットのように浮かび、その向こうに鳥が数羽、寝床に帰るようにして飛んでいた。
「でもさ、あの鳥くらい高い場所から見下ろしたら、案外、今はうまくいっているのかもしれないよ」と、榊くんは言った。
「うまくいかないことも、いずれうまくいくための伏線なのかもしれないから」
そう言って、榊くんは優しい眼差しを私に向けた。それは私への励ましであり、同時に、榊くん自身に対する励ましなのだろうと思った私はくず餅の入った袋を大事に抱えたまま立ち上がり、もう一度心を込めて、「ありがとございます」と榊くんにお礼を言った。
家に帰るとすぐに私は兄の部屋に直行し、ゲームをしている最中の兄の目の前にくず餅の入った袋を差し出した。「榊くんから」そう言うと兄は驚いた顔をこちらに向けたので、「偶然会ったの。くず餅兄妹へ差し入れだって」と言うと、兄はゲームを消して、「全部聞いた?」と恥ずかしそうに言うものだから、「聞いたよ、というか知ってたよ」とぶっきらぼうに言ってやった。
それから二人で向き合い、兄の部屋でくず餅を食べた。
「やっぱりうまいな」
あぐらをかいた姿勢でカップのなかのくず餅をつつきながら兄が言って、
「おいしいよ、そりゃ」
と、私も言った。
「だって、私の好きな榊くんからの差し入れだもん。私、榊くんに片思いしていたんだから」と続けて言うと兄は目を丸くし、「マジで?」と訊くから「マジだよ」と言うと、兄は大きなため息を吐いて、「俺って、本当に鈍感なんだなあ」とがっくり肩を落とした。
それからなぜか私と兄は、くずもちにまつわる幼少時代の思い出について話をした。「おまえ、いっつも黒蜜独り占めしてたよな」とか、「黄な粉でむせてたよな」とか、「私たち、結構しぶいセンスの子供だったね」とか、「おばあちゃんに久しぶりに会いたいね」とか。本当に話したいことは別にあったくせに必死に思い出話に逃げながら、私も兄もそのとき、きっと、榊くんのことを考えていた。三人で過ごしたあの時間は特別だった。そしてそれがもう叶わなくなってしまったことは悲しかったけれど、ひょっとしたら榊くんも同じ頃、私たちと同じように自分の家でくず餅を食べているのかもしれないな、と思ったら、私はちょっとだけ泣けて、ちょっとだけ救われた気持ちにもなったのだった。
あれから五年の月日が流れ、私は今、あのときの兄と榊くんと同じ大学四年生になった。同じゼミで知り合った彼氏もできて、ときどきくだらないことで喧嘩をしている。
兄は大学を卒業後、就職した先の建設会社で出会った年下の女の人と昨年結婚をした。がさつで鈍感で図々しい兄のことを、優しくおおらかな気持ちで包みこんでくれるような、小柄でかわいらしいタイプの女の人だ。そして榊くんにも今、恋人がいる。兄の結婚式で久しぶりに会った榊くんは相変わらずまつ毛の長い、華奢な体つきの優しくておとなしそうな榊くんのままで、「ミキちゃん、久しぶり!」と手を振ったときに見せた無邪気な笑顔も私の知っているあの頃のままでいた。
榊くんは今、建築デザイン事務所で働いていて、その関係で知り合った人と付き合っているという。「ほら、この人なんだ」と榊くんが照れながら差し出した携帯の画面のなかには、兄とはまるで似ていない素敵な男性がうつっていて、榊くんは今、とても幸せそうにみえた。
実家からすこし離れた場所に新居を構えた兄は、ときどき奥さんを連れて帰ってくる。毎度手土産として、カップ入りの、あるいは箱入りのくず餅を携えてやってくる。くず餅兄妹は今も健在なのだ。私たちは食卓に集い、家族みんなでくず餅を食べる。互いの近況や思い出話をしながらみんなでたのしくそれを食べるとき、私はいつも、あの夏の時間を思い出す。兄と榊くんと私の三人で、円陣になってくず餅を食べたあのときのことを。
そして今になってようやく思う。世の中、あるいは人生は、じつは案外うまくいっているのかもしれない、と。いや、実際には今だって、就職活動が難航したり、些細なミスを繰り返したりと、うまくいかないことばかりで悩んでばかりなのだけれど、でも、そう信じてみるのも悪くないのかもしれないな、と黒蜜と黄な粉をたっぷりかけたくず餅をほおばりながら、最近、私はそんなことを考えている。
(了)
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