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小説『甘い葉巻』

おいしいものから生まれる小さなストーリー」は、自分の好きなおいしいものから想像したストーリーを綴っていく小説集です。今回のストーリーの種となるおいしいものは、ヨックモックの「シガール」です。(約1600字)

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 そろそろあの子が帰ってくる時間かな。壁にかかる丸時計をちらりと見やる。

 しばらくすると、階段をのぼるダンダンダンッという音がドアの向こうから聞こえてきて、せわしなくドアチャイムが鳴るのと同時に「ただいまー!」の元気な声。

「おかえりなさい」と言うわたしの脇をすり抜けて、あの子はランドセルをソファに放り投げると、「やったー、おやつ!これ食べていい?」。嬉しそうに青色の缶に手を伸ばす。

「こらこら、先に手を洗ってからにしなさい」と言うとあの子は急ぎ足で洗面所にいき、高速ハッピーバースデーソングを歌いながら水をジャアジャア。急いでテーブルの前に戻って座ると、「いただきます!」と、まずはグラスに入った牛乳一口飲んで、それから透明の袋をピリリと破くと葉巻状に巻かれたクッキー一本、口にくわえた、と思ったら、そのまま「すーう、すーう」と息を吸いはじめるから、思わずわたしは笑ってしまう。そうそう、バターと小麦粉と砂糖で出来た筒のなかを通り抜けてきた空気は、ほんのり甘かった。わたしもそのむかし、同じことをしていたっけ。

「すーう、すーう」とあの子はそれを存分に満喫すると、シャクッと一口食べて、それから続けざまにシャクシャクッと小気味良い音を立てて咀嚼する。そしてあっというまに残りわずかになったところで、名残惜しそうに小さくなったそれをまじまじ眺め、「えいっ」と口のなかへと放り込むと、  
「もう一本!」。

 あの子は嬉しそうにまた包みを開けて、今度はそれに目を近づけて、望遠鏡みたいにしてのぞいている。それから牛乳にぽちゃりと入れるとストローみたいにズズズズズ。得意気にわたしをちらりと見てからまたズズズズズ。そして湿ったそれをおいしそうに食べ終えると、壁にかかる丸時計を見て「しまった!」と大慌て。「どうしたの?」と尋ねてみれば、マンションのすぐ前にある小さな公園で、お友だちと遊ぶ約束をしていたという。「あらあら、大変。暮れる前には帰るのよ」と言うわたしの声も耳に入らない勢いで、あの子は玄関で靴を履き履き、急いで家を飛び出していく。

 わたしはベランダに出て、柵に手をかけ、下を見おろす。
 しばらくするとあの子は駆け足で公園にあらわれて、もう一人の同じ背丈の男の子と合流するなり、ふたり仲よく手を取り合って、すべり台の階段をあがっていく。そして交互に滑ったり、あがったり、滑ったり、あがったり。ふたりのたのしげな声が聞こえてくる。このあとはきっと、いつもみたいにシーソーでもするのかな。ふたりとも気をつけて遊んでね。わたしは胸のうちでそうつぶやくと、そっと、部屋に戻った。

 昨日、母が買ってきてくれたこのクッキーは、かつて、わたしがあの子と同じ年くらいのときに出会ったお菓子で、以来、わたしのお気に入り。母はきっと、あの子とわたしのためにと、これを選んで買ってきてくれたのだろう。

 わたしはひとり、テーブルの前に座り、一本、缶から取り出し袋を開けると、人さし指と中指のあいだにはさんでみせた。大人はこうやって食べるのよ、なんて、子供のころからの「ごっこ遊び」の延長で、紳士な気分で気取って葉巻をふかすフリしてみたら、とたん、不思議と郷愁が胸に押し寄せてきて、ちょっぴり泣きたくなった―、

 と、そのとき、テーブルのうえに置いておいたスマートフォンがメッセージの着信を知らせた。見ると、夫からのメッセージが届いている。

「ごめん、今日の飲み会なくなったから、夕飯は家で食べるから」、だって。
 
 わたしは葉巻を指に挟んだまま、今度はギャングふうに低い声音でスマートフォンに向かって言ってやる。

「Hey,you、夕飯が毎日、必ずあると思うなよ」

 開け放した窓の向こうから、夕風にのってあの子の笑い声が聞こえてくる。

 さてさて、この一本食べたら、夕飯の支度でもしますかね、と誰にともなくつぶやいて、わたしは甘い葉巻を指に挟んだまま、煙を吐くようにふうっと細く長く、宙に息を吐きだしてみた。

(了)

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