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小説『初恋は、ほろっと苦くて、切なくて』

おいしいものから生まれる小さなストーリー」は、自分の好きなおいしいものから想像したストーリーを綴っていく小説集です。今回のストーリーの種となるおいしいものは、西光亭の「チョコくるみクッキー」です。(約6800字)

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 あとすこしで、僕の初恋の人が転校してしまう。

 中学生になり、同じクラスになった彼女に僕は、生まれて初めて恋をした。彼女はまっすぐな黒髪のセミロングで、笑うと両方の頬に小さな笑窪ができた。くりくりっとした大きな瞳は愛らしく、ときどき驚いていないのに驚いたようにみえるときがあって、そんな彼女のことを僕はとてもチャーミングだと思っていたけど、どうやら本人はそれが嫌みたいで、ときどき仲良しの女子や男子にからかわれては、本気で頬を膨らし怒っていた。

 そんな様子を僕はいつも、すこし離れた場所から眺めていた。彼女はみんなに好かれる人気者で、僕はまったく目立たない、ただの大人しい奴だったから。

 一度だけ、街なかの喫茶店で、偶然彼女に出会ったことがある。買い物に付き合わされた帰り、僕は母親と一緒にその店に入ったのだった。
 白い洋館風のその喫茶店はたくさんの女の人たちで賑わっていて、僕はちょっと居心地悪く、案内されるまま店のはじっこにある席の奥に腰かけた。すると、通路挟んだ向こう側のはじっこの席に、制服とは違う、白いブラウスを着た彼女の姿を見つけたのだ。

 彼女もまた、母親らしき女の人と一緒にいて、それなりの距離はあるにせよ、僕らは対角線上、ななめ向き合うかたちになってしまった。彼女はでも、僕の存在になんて気づくことなく、母親らしき女の人と愉しげにおしゃべりに興じていて、僕はそのまま気づかれないよう、妙に半身を壁にもたせて体を縮こませながらも、ちらちら彼女の様子を窺った。

 ケーキでも食べていたのだろうか、彼女の目の前には空っぽの小さなお皿があって、彼女はフォークを握りしめたまま大きな瞳をくりくりさせて、ときに笑い、ときに驚き、表情豊かに何か熱心に話をしていた。

「…だから明日、牧田さんに電話しないといけないのよ」
 急に声がして、見ると、母が扇子で顔をあおぎながら何かべらべら話をしていて、慌てて僕は相槌を打ちながらも、意識はすぐに、彼女の方へと注がれる。しばらくすると、母親らしき女の人が化粧室へと席を立ち、彼女ひとりが席に残されてしまった。彼女は可憐な手つきでティーカップを唇にそっと押し当てると、紅茶一口飲んで、そのあと口元にカップをとどめたまま、なんだか嬉しそうに微笑みを隠しきれない様子でいた。きっと、愉しいお喋りの余韻にでも浸っているのかな、と思わせる表情で、僕までなんだか微笑みたくなってしまった。

「じゃあ、もう帰りましょ」
 冷たいコーヒーを飲みほした母がせかせかと帰り支度をし始めて、慌てて僕も残りのサイダー飲みほし、急いで母の背中を追って店を出た。帰り際、彼女の方をちらりと見たら、彼女はまだ口元に微笑みを残したまま、ティーカップ片手に優雅にお茶の続きをしていた。

 そんな彼女の姿が僕のまぶたのうらに焼きついて、思い出すたびに胸がどきどきし、僕は人知れず胸を焦がした。人を好きになるという初めての感情は僕を十分に戸惑わせ、僕はひとりヤキモキしながらもどう動いたらいいのか分からず、結局、彼女に声を掛けることすらできないまま、時間だけが過ぎてしまった。そして彼女はあとすこしで、遠く離れた土地へと引っ越してしまう。

 せめて僕は、最後にすこしでいいから、彼女と言葉を交わしたかった。そして餞別といっては悲しすぎるが、気持ちを込めた贈り物をしたいと思った。しかし贈り物といっても、何を選べばよいのかまるで見当がつかない。そこで仕方なく僕は、八つ年上の姉に相談を持ちかけてみた。すると姉はすぐさま僕の気持ちを汲みとって、自分の部屋から持ってきた小箱を僕に差し出した。

「これなんてどう?」
 それは、一輪の花を手にした可愛らしいリスが描かれたもので、開けるとなかにはUSBメモリが数個入っていた。USBメモリ?僕が不思議そうな顔をすると姉は笑い、
「ちがうよ。もともとはクッキーが入っていたの。食べ終わったから今は小物入れにしているだけ。かわいいでしょ」そう言って、「おいしいんだよ、ここのクッキー。それにほら、メッセージも書かれてあるから、口下手なボクちゃんにはちょうどいいんじゃないの?」と相変わらず姉は僕を子供扱いしてくるから腹が立つけど、たしかにリスのとなりには『いつもありがとう』というメッセージも書かれてあって、これなら彼女も喜ぶかもしれない、と僕は姉に感謝し、素直にその提案を受け入れることにした。

 そしてその翌週、早速僕は姉に付き添ってもらい、小さな店にやってきた。お店のなかには姉が持っているもの以外にも様々なメッセージや絵柄の入った小箱が所狭しと並んでいて、僕は迷った。「どれどれ、一緒に選んでやろうか」と、となりで好奇の視線を送ってくる姉を追い払い、僕は小遣いを握りしめながらそれらの絵柄ひとつひとつに意識を集中させた。どれも女の子が喜びそうな可愛らしいものだったが、そのなかにひとつ、「これ!」というリスを発見した。そのリスは、花や蝶々にかこまれたなか幸せそうにお茶をしていて、あのときの、喫茶店で見かけたまさにあのときの彼女を彷彿とさせるものだった。メッセージよりも何よりも、僕はこのリスにつよく惹きつけられてしまった。 

 そして迎えた彼女が登校する最終日。
 彼女はやはり人気者で、休み時間のたびに彼女のまわりには人垣ができていたから、僕はなかなかクッキーを渡すタイミングを見つけられずにいた。鞄のなかに忍ばせてあるその小箱を、いつどうやって手渡し、どう気持ちを伝えてみようか、考えただけで緊張が走り、僕は授業中、ずっと上の空でいた。

 午後の授業が終わるとホームルームになり、彼女の転校の挨拶が行われた。どこからともなくすすり泣く声が漏れて、彼女も大きな瞳を赤くしながらも涙を堪えてお辞儀をすると、代表者の男女二名が寄せ書きと花束を持って、彼女に贈呈をした。僕ははじっこの席から淋しい気持ちでその様子を眺めながらも、心の片隅では一抹の不安を抱えていた。一体、どのタイミングで彼女に小箱を渡すことができるのだろう。そのあとも彼女はずっとたくさんの友人たちに囲まれていて、そこに僕の入る余地なんてなく、無論、かき分けていく勇気もなくて、僕はひたすら途方に暮れてしまった。そしてようやく別れの挨拶が一段落すると、彼女はたくさんの荷物を抱えながらみんなに手を振って、いつも一緒に帰宅している友人たちに囲まれながら、あれよあれよという間に教室を出ていってしまった。結局、僕は鞄に小箱を忍ばせたまま、何もできずにその姿を見送るよりほかなかった。

 放課後、僕は教室にひとり居残り、着席したままうなだれていた。夕暮れ時のオレンジ色の強い光に半身をさらされながら、虚しさと自責の念に襲われていた。
 
 どうして最後に声を掛けることができなかったのだろう。僕の初恋だったのに。もう彼女には会えないかもしれないのに。なんて意気地なし―。

 窓の向こうから聞えてくるグラウンドを駆けまわるサッカー部員の威勢の良い掛け声にも押し潰されそうになるほどに、僕の心はぺしゃんこになっていた。もごもごと、言葉にもならないつぶやきを自分でも何が言いたいのかも分からないまま吐き出しながら、ぐずぐずと僕はそこに居座っていた。協力してくれた姉の待つ家には帰りたくなかった。でもいい加減、そろそろ帰らなくてはいけない。

 重いため息とともに鞄に手をかけたそのときだった。ガラッと教室の扉が開き、彼女が現れたのは。

「えっ!」と彼女は最初、びっくりした顔をして後ずさりをした。おそらく逆光のせいで僕の姿は暗くなっていたのだろう。それに誰もいないはずの教室にひとり、小柄だけれど男がいれば、それは彼女だって驚くはずだ。けれど驚いたのはもちろん僕も同じで、僕も思わず「え!」と声をあげてはいたけれど、それはたぶん小さすぎて、彼女の耳には届かなかったようだ。

「なんだあ、まだいたのかあ。びっくりした」
 彼女は僕を認識すると、ほっとしたように微笑み、それから小走りで自分の席まで行って、腰をかがめて机のなかに片腕を突っ込んだ。

「忘れ物しちゃったの。さっき気がついて、慌てて取りにきたんだ」
 何も言えずにいると、彼女はごく自然に沈黙を埋めようと話をしてくれた。机のなかを探るたびに揺れる髪の毛が、オレンジ色の夕陽を受けて、さらりきれいに光っている。

「ああよかった、これこれ」と彼女は小さなポーチらしきものを奥から取りだすと、肩にかけているバッグのなかにさっと入れ、「じゃあ」とすぐさま帰ろうとしたから慌てて僕は彼女を呼びとめた。

「待って!!」
「ん?」と彼女は立ち止まり、きょとんとした顔で振り向いた。
 僕は必死に震えを抑えながら小箱の入った袋を鞄から取り出すと、彼女のそばまで一気に駆け寄り、勢いそのまま彼女に向かって差し出した。
「こ、こ、これ、よかったら」
 唐突な僕の行動に、彼女の大きな瞳がきょろきょろっと小刻みに動いたのが分かった。いつものように驚いていないのに驚いたように見えたわけではなく、その瞳には明らかに動揺と驚きの色が浮かんでいて、僕はちょっとひるみそうになりながらも勇気を振り絞って袋を差しだし続けた。

「え…」と彼女はおそるおそる袋を受け取ると、華奢な指先で中身を取りだし、
「…かわいい」
 小箱を見た瞬間、彼女の瞳が輝き、みるみると表情が緩んでいくのが分かった。

「クッキーなんだ。そこのおしいんだって。あの、もう転校しちゃうから、その、どうしても渡したかったんだけど、なかなかタイミングがなくて、その…」
 冷えているくせに汗ばむ手の平をズボンの側面にすりつけながら、しどろもどろに僕は言った。もっと伝えたい想いはあるくせに、いざ本人を目の前にすると、言いたいことのほとんどは喉元でつかえてしまう。

「ありがとう。…でも、いいのかな?『ありがとうございました』なんて、わたし、お礼言われるようなこと、何もしていないのに」
 彼女がちょっと申し訳なさそうな顔をみせたから、慌てて僕は首を横に振り、
「ううん、僕はものすごく感謝してるから…」(だって、僕が初めて恋をしたのがあなたで、そのおかげで僕はこの初めての感情を知って、このつまらない学校生活にも彩りが加わったのだから)
 そう言うと、彼女はすこし不思議そうな顔をしながらも特に追及することなくフフフと笑い、
「なんだかこのリス、癒されるね。あったかいお茶飲んでいて、幸せそうな顔してる」
 柔らかな視線を小箱に注ぐ。
「うん、他にも違うリスの絵もあったんだけど、これが一番いいなって思って…」(だって、このリスを見ていたら、喫茶店で見かけたあなたを思い出したから)

 彼女は黙ったまましばらくそのリスを見つめると、ふいに顔をあげ、うす暗くなってきた教室を見回した。そのとき、何か込みあげるものがあったのだろうか。彼女は感慨深い表情を浮かべると、涙を堪えるように顔をすこし歪ませた。

「ごめん、なんだか急に淋しくなってきちゃって。明日からはもう、ここには来ないんだなって」
 淋しげに彼女はぽつりと言うと、湿った気分を取り払うように無理やり笑顔をつくってみせた。頬の両方にできる小さなくぼみが愛おしい。

(あの、あの、…)
 僕は喉元につかえている言葉を、今こそ今こそ、と発しようとはするものの、つかえはなかなか取れてくれずに、ただ曖昧な笑顔でうなずくばかりだ。

「そういえば、前に喫茶店で会ったことあるよね?」
 急に話題が変わり、「えっ!?」と僕はすっとんきょうな声をだした。
「気づいていたの?」
「うん、気がついていたんだけど、ごめんね、ああいうときって、なんとなくお互い気まずいよね」
 思い出したように彼女がくすくす笑い、僕の顔はかあっと熱くなった。気がついていたのか…。恥ずかしいような、嬉しいような、何とも言えないくすぐったい気持ちに襲われる。

「これ、本当にありがとうね。すごく嬉しい。食べ終わったあとも、大事にするね」
 彼女は丁寧な手つきで小箱を袋に戻すと、肩にかけているバッグのなかにそっと入れた。

(あの、あの、…)
 今こそ!今こそ!と僕は喉元でつかえている言葉を絞りだそうとするものの、手に汗が溢れ、口のなかが渇くばかりで、音らしきものなにひとつ発することができない。

「あ、いけない」彼女は手首に巻きつけてある細いベルトの時計を見ると、「もう行かなくちゃ」とつぶやき、小箱に描かれたリスにも負けない可愛らしい笑顔を見せると、「じゃあ、元気でね!」そう言って、僕の返事も待たずに教室を飛び出し、目の前からあっというまに立ち去ってしまった。

 パタパタと廊下を駆けていく彼女の足音。次第に遠のいていくその軽やかな足音を聞きながら僕は、またしても放心状態に陥っていた。

(あの、あの、あの、…)

「…ずっと、好きでした」
 ようやく喉元から転がり落ちてきた言葉がコツンと音をたて、僕の上履きのつま先にぶつかった。そして行き先も見つけられないまま、冷たい床のうえで静かに蒸発していく。その過程を僕は、暗くなった教室でひとり、棒立ちになったまま見届けた。

 僕の初恋、僕の失恋―。
 失恋?はたしてこれは、失恋と言ってもよいのだろうか…。

 重い足取りで家に帰り着くと、姉がすぐに僕を出迎えてくれた。
「どうだった?」と、いの一番に訊く姉の声には心配というよりも興味津々といった弾んだ響きが含まれていて、僕は一気に不機嫌になった。
「べつに。大丈夫だったから」
 低い声音で返事をすると、僕は姉の顔を見ることなく自分の部屋に直行した。「あらら、大丈夫じゃなかったか」という姉の同情的な声と、それに応じる母の声がひそひそとうしろから聞こえてきて、僕はいっそう惨めな気分になって、自分の部屋に入るなり後ろ手で扉をバタン!と閉めた。

 何のおもしろみもない、今朝と変わらない自分の部屋を目の前にしたとたん、急に悲しさが胸に突き上げてきて、たまらず僕はベッドのうえに飛び込み、掛布団のうえで突っ伏して泣いた。

 結局、彼女に何も言えなかった。一度帰ったはずの彼女が教室に戻ってくるという奇跡が起こったというのに。神様が情けない僕にチャンスを与えてくれたというのに。それをいかすことができなかったなんて、一体僕は何をしていたんだ…。

 売られていたクッキーには絵柄は異なるけれど、『これからもよろしくお願いします』というメッセージのものもあった。たとえばそれを選んで、連絡先をこっそり忍ばせておくことだって出来たはずだ。そうやってアピールする方法だってあったはずだ。でもやっぱり、僕はそうしたことが苦手だった。そんなキザな真似は自分には似合わないし、出来っこない。それに、僕はどうしてもあのリスの絵柄が気に入ったのだ。彼女だって、目元をほころばせながら喜んでくれていたじゃないか。そうだ、それで良かったんだ。彼女に手渡せただけでも上出来じゃないか―。僕は何度も何度も言い訳するように、自分にそう言い聞かせた。

 こぼれる涙を拭おうとベッドから起き上がり、学習机の上にあるティッシュに手を伸ばそうとしたそのとき、机のはじっこにちょこんと置かれてある小箱に気がついた。それは、彼女に贈ったクッキーと絵柄違いの小箱で、『おつかれさまでした』というメッセージが入っているものだった。きっと姉の粋な計らいだろう。結果、うまくいってもいかなくても、「おつかれさまでした」であることには間違いはない。

 僕は濡れた頬を手早くティッシュで拭うと、その小箱を小鳥のように大事に抱えてベッドのはしに浅く座った。そして腿のうえで蓋を開けると、なかにはコロンとしたチョコくるみクッキーが四つ、粉雪のなかに埋もれるようにして並んでいた。

 衝動的に僕は、ビニール包装を破り、そのうちの一つを指でつまんで口に入れた。クッキーはほんのりと甘く、砕かれたくるみの風味が香ばしい。軽く咀嚼するだけですぐにそのクッキーは、ほろほろっと口のなかで崩れていった。思わずもう一つ食べる。甘さのなかにもほろ苦さがあって、すごくおいしい。指先は粉糖で真っ白だけれど、かまわず僕はさらにもう一つを口に入れた。

「おいしい…」
 こんなにかわいくて上品で優しい甘さのお菓子なら、彼女もきっと、喜んで食べてくれているはずだろう。ふいに、彼女のために選んだリスの愛らしい笑顔が頭に浮かび、それはみるみると僕の脳裏で彼女の笑顔へとうつりかわっていった。

「…おいひい」
 箱に積もった粉雪のうえに、熱い涙が一粒、雨粒のようにぽたりと落ちた。

 姉の粋な計らいは、励ますどころか余計に僕を切なくさせる。でもやっぱり、初恋の彼女にこれを贈ることができてよかった、と僕は思った。

 嗚咽がでるほど悲しいくせに、妙な達成感も同時に生まれてきて、僕は自分でもよく分からない心境のままこぼれる涙を拭いもせずに、箱のなかに残る最後の一つに手を伸ばした。

(了)

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西光亭のチョコくるみクッキーについてのエッセイはこちらから♪


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