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個性の病理化に関して 同性愛から考える

同性愛やアスペルガー症、ADHDなどの病理化には昔から個人的に懐疑的である。個性とも言える各人の性質に名前を付ける事の弊害について考えてみる。(同性愛と異なり上記疾患には薬物療法も効果が認められており、自分の専門外であるから実際には保留させていただきたい。)

同性愛に関しては1990年以前はWHOによって正式に精神疾患として治療の対象とされていたが当事者たちの活動により1990年に脱病理が成された。では同性愛は1990年を境にいきなり異常なものから正常な個性に変化したのだろうか、いや1899年にも1901年にも同性愛は恋愛やライフスタイルの形でしかなかったはずで、あくまで呼び方が変わっただけだ。科学が権威付けされた現代では、個性を医学的に定義していく事は論理的に見えるが、実際は上記のよう勝手に名前をつけている事に過ぎない。たしかに原因遺伝子など医学的根拠は挙げられるが、個性が遺伝的な差異に基づくのはなんら驚く事ではない。

病理化する、つまりはカテゴライズするメリットとしては存在の認知やそれに伴う公的支援、治療法の確立などがあげられる。

一方でデメリットとしてライフサイクルや性格などの個性を病気つまりは異常、間違っている形だと診断する事で当事者の自尊心低下に加え差別の根拠となってしまう。確かに認知され地位を獲得していく過程には必要なものであり、カテゴライズを全面的に否定はしないが、これからはカテゴライズを形骸化させていくフェーズでは無いだろうか。

同性愛は脱病理化によって、彼らの恋愛の形は間違って居ないと主張することが出来た。その結果、今やlgbtムーブメントは地球規模となり、日本でも世田谷区を皮切りにパートナーシップが導入されるなど変化が目覚ましい。

しかしカテゴライズによる弊害は、脱病理後さらに拡大している。lgbtという4文字にセクシャリティを詰め込み、過度に宣伝した結果、lgbtと非lgbtとが強調されてしまい通常者との間に壁を作ってしまった。分類は他との差を強調する事であり、過度なものは分断につながる。その結果lgbtと聞くと人々は口を揃えて『私は偏見を持たない』と言いながら距離を取るようになってしまった。lgbtが過度に団結するほどに社会から浮いていくという皮肉な構造は、留学生同士が学校内で常に一緒に行動していると日本人学生が話しかけづらく一向に交流が図れない(僕の大学だけだとは思いたいが)のに似ている。

その背後にはlgbtムーブにより、面倒な人たち、触れるとケガをする人たち、という印象を普及と同時に与えてしまったことがある。過剰な擁護風潮は裏を返せばホモフォビアへの風当たりの強さでもあり、一度フォビアだと判定されると差別的というレッテルを貼られ社会的に制裁を受けかねない。しかも一般人には何がアウトなのか分かりづらく(20年前はテレビもホモいじりをして居た訳で時代についていけない世代を一方的に責めるのは厳しすぎる)下手に触れたくない人たちというイメージを持たれるのも当然だ。現に今投稿でlgbtにsやqを付けて居ない事で責められかねないし、今時はSOGIに統一するよう怒られるかもしれなく一般人からしたらリスキーな話題である。(腫れ物化や、マイノリティの社会に対する迎合のされ方に関する提案は長くなるので別の会で。)マイノリティ側には、従来のものから掛け離れた概念を理解してもらう側として、直ぐには理解出来ないマジョリティに対して寛容である必要がある。そしてこのようなlgbtムーブメントはセクシャルマイノリティのごく一部が推進しておりクローズなセクマイは必ずしもムーブメントを望んで居ないというのも皮肉な話である。

以上の理由から多くの利益があるかもしれないが個性の病理化に全面的な賛成はしかねる。

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