祖母のこと

お昼前、実家から電話がかかってきた。祖母が亡くなった、という知らせだった。享年何歳だったかもうわからないくらい、会っていなかった。父方の祖母で、元々実家で同居していたが、アルツハイマーを患い実家での看病が困難になった。既にその時私は家を出ていたので毎日の様子は母から聞くだけだったが、トイレの場所もわからないため壮絶な状況だったらしく、施設に入所した後の母はすっかり疲れ切ってしまい、味覚も嗅覚もしばらくなかったようだ。子供はひいおばあちゃんに会っていないので、7、8年は会っていなかったと思う。最後にいつ会ったかすら覚えていない。

父が幼い頃に夫と離婚し、女手一つで父を育て上げた。当時のシングルマザーは本当にマイノリティーだっただろう、苦労はどれほどだっただろうか。父が今の実家を購入した時は、本当に誇らしげだった。私が育ててきたんだ、と言わんばかりに。親戚付き合いを嫌っていたため、父方の親族を私はほとんど知らない。私と血が繋がっているはずの祖父も、もはやどこの誰だかわからない(結婚の手続きのために戸籍を取り寄せて初めて、父の本籍が岐阜県にあることを知ったくらいだ)。祖母の部屋は誰も入ってはならない場所だったが、お盆やお彼岸などは特別に子供を入れてくれて、軍服を着たお兄さんだかおとうさんの白黒写真の前で手を合わせた。立派な人でね、と話してくれたが、それ以外の祖母の部屋のことは一切知らなかった。いや、祖母について私はほとんど何も知らないに等しい。

アルツハイマーを患って施設に入所した後はどんどん病気が進行し、息子である父のことも忘れた。人の記憶は年輪のようになっていて、外側から忘れていく。記憶の中心は、生まれて最初に認識する家族。自分のお兄さんのことは覚えてるのに、俺のことはもう忘れてて、どちらさま?って言われるんだよ、と父は寂しそうに話していた。親に忘れられるとは、一体どんな気持ちなんだろう。

私がこれだけ長く祖母に会っておらず、ついには会う前に亡くなってしまったのには相応の理由がある。母と祖母の関係が大変悪かったからだ。父は常に、苦労して育ててくれた祖母の味方をした。たとえお袋が悪かったとしても俺はお袋の味方をする。そう母に宣言していた。ひどい話だが、それが昭和の当たり前と言えばそれまでだった。家の中で圧倒的に不利な立場にいた母は、子供を自分の味方に取り込んだ。父や祖母の愚痴を聞かせて同情させることで、味方につけていった。こちらが少しでも祖母とコミュニケーションを取ろうとすると母の機嫌が悪くなる。父が単身赴任に出たころは嫁姑戦争は激化し、同じ食卓を囲まなくなった。私がご飯を作るから、というと、あの人と一緒にご飯を食べさせる気か、とものすごく怒られたのでもういいやという気持ちになった。そういう人間に、施設にお見舞いに行きたいと仮に口走ったとして。どんな反応をされるかは明白だ。父は自分の親なのでもちろん定期的に施設を訪問しており、父をつかまえてこっそり同行することはできた。でも父が内緒にしてくれる保証もないし、そもそも私のことなんて忘れてる。もうとっくに家を出ており母に何か言われることは気にしなくても良かったのだとは思う。でも子供も生まれ忙しい時期でもあったので、結局面倒になってしまった。

仲が悪くても一応家族だし、私は母と祖母どちらとも気にせず接したかったのが本音ではある。ただし自分が嫁となった今、母の気持ちもよく分かる。家族といえど嫁と義両親は元々他人。嫌なことはどうしても起こるし、子供を巻き込んでしまうこともある。理想と現実はかなりシビアである。

娘に、あなたは会ったことないんだけどひいおばあちゃんがいて、今日死んじゃったんだ、と話すと、涙を浮かべていた。それを見て驚いたのだが、死という概念は認識しているので、会ったことはないけど悲しいことだととっさに反応したのかもしれない。ありがたいなあ、と思った。

祖母の最後の記憶は、結婚後実家に夫婦で泊まりに行ったとき、洗面所の前で、いい旦那さんだね、幸せでしょ?と話しかけてくれたことだ。プライドが高く、ステータスや学歴を重んじるタイプだったが、孫の幸せは願ってくれていたんだと嬉しかった。アルツハイマーで私のことを忘れてしまってから会って切ない気持ちになるよりは、それが最後の記憶で良かったのかもしれない。もう二度と会えなくなってしまった今となっては、ただの言い訳かもしれないが。

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