スピッツ「美しい鰭」

ファンになってから必ず発売日に買っていた新譜。多分配信シングル以外では初めて、発売日に買えなかった。発売日もきちんと覚えていなかった。映画の主題歌になり様々な情報公開がされる中、私はその流れとは全く別の場所にいた。

1人目の出産後に迎えた「みなと」は、出産直後にもたらされた光のようだった。暗闇の育児の中の一筋の光。その年の夏に発売された「醒めない」は、初めて赤ちゃんを連れた遠出のドキドキ感とともに、車の中で聴いた瑞々しい音が蘇る。2人目の出産とともにあったのは「優しいあの子」だった。連続テレビ小説「なつぞら」の主題歌になり、出産前に入院していた病室で初めての音を聴いた。上の子に会えない辛さ、早産の不安に怯える私にとって、やはり光だった。毎日朝に会えるその歌声を楽しみに、日々を乗り越えた。そしてその年の秋発売の「見っけ」くらいから音楽を聴く時間が取れなくなり、ライブもこの年の冬、コロナ直前に参加したものが最後となった。

今回もアルバム発売に先駆けた新譜であったが、自分の状況は音楽とは遥か遠い場所にあった。というか、自分がそういう場所に来てしまっていた。長く住み慣れた街を離れ、土地に馴染むこと、そして大きくなった子供たちの体と心を保つこと、これはとても一言で済ませられるような労力ではなく、でもそれを今の自分として、忙しいけどそれなりに幸せに、音楽とは別の場所で生きていた。スピッツの情報で沸き立つネットを眺めながら、そこに入っていけないもどかしさをそれほど感じることもなく、なんとなく私はもうそこにはいない、と思っていた。

Twitterの情報を見て発売したのだとわかってはいたが、すぐにお店に行けるわけでもなかったのでしばらく傍観し、隙を見つけてCDショップへ自転車を飛ばした。様変わりしたCDショップの様子。韓国アイドルや推し活グッズに場所を取られ、スピッツの新譜の展開はなく、「す」のコーナーに行きやっと見つけた。家に帰っても子供が起きている時間は聴くことができず別のことをやり、昔は新譜の発売日にいそいそと家に帰り、何かの儀式のようにすべてのことを済ませて身を清め、CDプレーヤーの前に正座して緊張しながらスイッチを押していた、いつもいつもそうしていたことを思い出した。

やっと一人になり、無造作につけたCDプレーヤーから聴こえてきたのは、あの頃と全く変わらないスピッツの音だった。マサムネの声はもちろんのこと、ギターも、ベースも、ドラムも、てっちゃんが、リーダーが、さきちゃんが、彼らが鳴らしているんだとはっきりとわかる音。彼らが歌い、演奏している場面が浮かぶのだ。これほどまでに「自分たちの音」を出し続けられるのは一体どうしてなんだろう。その数分だけは、音楽とともにあった自分に戻っているような気がした。私はスピッツを避けていたのか?スピッツが隣にいなくても幸せなふりをしていたのか?それは、正しくもあり間違っている。いつだって物事は白か黒かではなく、グレーなのだ。自分は子供との生活を新しく手に入れ、その視点でたくさんのことを学んでいるし、子供がもたらしてくれるあらゆることがとてもいとおしくて幸せだ。ただ、スピッツと常に一緒だったころも疑いようがなく幸せだった。それはパラレルで動いていて、比較できるものではない。そして、もうスピッツだけだった頃に戻ることはできない。今のやり方で、今の自分なりに生きていくしかない。

だけどこれだけははっきりと言える。毎日流されて流されて、気づけば音楽のない世界に辿り着いていて、そこで幸せに暮らしていて。それでも少しだけ流れに抗って、パラレル世界のもう片方に迷い込んで手に入れた自分らしい時間。みじめにも見える日常へのささやかな抵抗を「美しい鰭」と例えてくれる優しさ。そしてなにより、こちらがどんな状況でも、「また会えるとは思いもしなかった。元気かはわからんけど生きてたね」と、いつでも変わらない姿でそこにいてくれる頼もしさ。ありがとう。本当にありがとう、スピッツのファンでよかった。

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