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子どもの主体性をなんたらかんたらの話

子どもの主体性を伸ばそう育もう等、声高らかに謳われるようになって久しい。

なので、子どもの主体性を伸ばそうとあれやこれやとやってあげている、やらせている親御さんや先生もたくさんいらっしゃるだろう。

しかしながら、この「やってあげている」「やらせている」が大変クセ者なのだ。

まず、「やってあげている」はもう違うよ、だいぶ。

子どものやりたいことを、全て出来るようにやってあげている。例えば、祭りで楽しみたいと子どもが言えば、大人がクオリティの高い祭りをセッティングし、楽しんでもらう…。いやいや、これは主体性ではない。言うなれば、おもてなし…。

これは、主体性ではなく「ワガママを通す」という現象だ。

一方、「やらせている」は、例えば運動会などで保護者に見せるための演技種目がそうではないだろうか。教員側には教育上のねらいがあるとは言え、完全に管理教育の発表会である。

長い間、義務教育などは管理教育でやってきたが、教育の中に主体性が求められるようになってきたため、「子ども主体」という言葉が多く使われ、一見教育が変わってきたように思われるが、私にはそう見えない。「やってあげている」と「やらせている」がただ混在するだけで、教育自体が形を変えて変化していっている訳ではない。

では「主体性」とは、どんな意味か。辞書を引くと

自分の意志・判断によって、みずから責任をもって行動する態度や性質。 「 -をもって行動する」

とある。

これを見ると、子どもたちが考えて自由に行動したことは尊重してやらないといけない、と思われるかもしれないが、私が重要に思う箇所は、「自由に」よりも「責任をもって」の部分である。

責任をもって、か。そうなると、大人が管理してやらないと…。と思うあなたも、ちがう。ちがう。そうじゃない。

私の、子ども達に身につけてもらいたい主体性は、ホントに大人でも難しいことだけれども、自分のやりたいことを、その時の状況や環境を考慮に入れて、必要ならば誰かの手を借りて、やる。こういうことだ。

大人は、子どもにそういう考えが身に付くように導く。決して管理するのではない。

学びたい、やりたい、が自らの中から湧き出るように、導く。

ということは、子どもの主体性を育む教育を、大人が目指したいのなら、まずは大人が主体性を持たなければ難しい。

自立した考えを持ち、子ども達を管理せずとも導けるように在りたい。

大人がまず、主体的に行動することの素晴らしさを知り、子どもの主体性を育みたいという意志を持たないと始まらない。

自らの教育が、そもそも主体的な取り組みでないと辻褄が合わない。

私はこう理想を掲げ、常に意識はするものの、どんなことをどう取り組めば良いか、正解は全く見えていない。

ただ、目指すべき「子どもの主体性」を言語化することで、教育に携わる方々に共有できる可能性を期待して、今回このnoteに書いている。

教育に携わる方々だけでなく、子どもに関わる全ての大人の人達の頭の隅に、少しだけでも残ってくれたら、とても嬉しいな…。



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