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「好きで生きていきたい」下手の横好きが「好きこそものの上手」になるにはどうしたらいいか?

「好きこそものの上手なれ」と「下手の横好き」この永遠の課題、この差はなんなのか?
2つのツイートから考えてみました。


これに対し、以下のようなリプがありました。

正直、めちゃくちゃわかります。首もげそうなくらい頷いてしまうのは、私だけじゃないはず。
さて、この差ってなんだろう?とnoteを書きながら考えてみようと思います。

まず最初に、曖昧なのが「上達」の定義だと思うんですよね。
「上達」が「昨日の自分を物差しにした他人を介さない上達」なら、それは多分誰でもできると思うんです。

たとえば、書くことで言えば、「毎日ネタを見つけられるようになった」とか「分量に対して費やす時間が減った」とか、これは他人からの評価を必要としないし、自分で実感できる「上達」。

だけど、「下手の横好き」と感じたり「自分ばっかり成長しない」となるのは、他人から評価される「上達」でしょう。

おそらく、迫さんのツイートの「得意になる情報発信」には、勝手な解釈だけど、「自分だけで完結する上達」も含まれていると思うんです。たとえば「習慣化」とか、「続けるコツ」に近いような。
そこに「有益な情報」が生まれて、その実績を評価する人が集まると、さらに次のステップに進んでいける、ということなのかな、と考えました。

そうやって次のステップに行く時に、さらに文章でいうところの、「読まれる」「伝わる」みたいな要素が組み込まれると、目に見える「上達」として自分は感じられるのかなぁ、と思います。

多分、【主体的に実践する】の「実践」の動機のバランスが違ってくるんだと思うんです。

上手になる人は

実践の動機が「うまくなる≧楽しい」

横好きの人は

「うまくなる<楽しい」

結局「好きを仕事に」は他人からの価値を見出されないと意味がないので、「好き」にスキルがないとやってられないし、そのスキル探究が「好きなこと」なら自然とやるよねって話なのかなぁと思いました。

たまに、好きでやってるうちにうまくなる人もいると思うんですけど、それは適性が高かったり、量が質に転化したパターンだったりするのかな、と思っています。

つまり、結論的にいくと、「好きこそものの上手なれ」と「下手の横好き」の差は、

①"上達のため"に探究し続ける貪欲さ
②質に転化するくらい夢中でやりまくれるか

なのかな、という結論に至りました。

みなさんはこの差って、何だと思いますか?


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