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⑫時代の終わり

時代はバブルの後半。
装飾や照明、イベントなどに高額な金額をかけてでも、どんどん開催されている頃でした。

銀座セブンの展示会場で電機メーカー新作商品イベント。
晴美埠頭のイベント会場で国際おもちゃショー。
浦安 ディズニーホテルのロビー飾り付け。
渋谷商店街のイベント用飾りつけ。
赤坂のホテルにてディナーショー用のステージデザイン。
Tv東京の音楽番組スタジオセット。
新宿ルミネのウィンドウディスプレイ。

そんな仕事で毎日が手一杯でした。
上司や先輩達と一緒にクライアントとの打ち合わせを元にデザインを考えて図面に起こし、完成予想図のパースを描いてプレゼンをし、どのデザインにするかが決まったら製作部へ発注。
色や大きさを確認しながら職人さん達に作成してもらい、出来た物を会場の現場に搬入し設置。
出来上がった各ブースに商品を飾りつけして完成。
開催当日には次の仕事の参考にするためと、アクシデントの時に対応できるように現場スタッフとして会場でお手伝い。
大抵の現場は一般のお客様が居なくなる閉店後や夜のうちにするので、当然、夜間の仕事が多くて帰宅時間はバスも電車も無いため家から職場までは自転車で通勤してました。
女子寮にいた頃は、毎日友達と一緒に暮らしていたようなものなので、寮で一緒だった友人達は、卒業して1人暮らしになっても誰かの家に泊まってる事が多くて、友達の家から仕事に行く日もあるくらいでした。
どちらかと言えば、ウチはいつも誰かが泊まりに来てましたけど…笑
そんな毎日は、忙しくて楽しくて、1日24時間じゃ足りないくらいの日々でした。

あの日比谷野音の追悼ライブ以降・・・
なぜか?学校のクラスで一緒だった友人達3人とは会わなくなってました。
会えば、話せば、突然居なくなってしまったボーカル I さん。を思い出してしまうから?
そのメンバーで会えば、どうしても、その話しになってしまうから?
楽しかった あの頃を思い出すと同時に、バンドの顔だったボーカルが居なくなった事で自然消滅したかのようになってしまったメンバー達の「今」を考えてしまうから?
まるで「蓋」をしたかのように皆んなが「そこを避けて」いるかのようでした。
当然、メンバー達はもちろん、ドラムのGとも、どちらから共なく連絡しなくなっていました。
まだまだ若かったんですよね・・・
かける言葉が見つけられなかったんです。
どこからともなくバンドは「解散するのでは?」と、聞こえていたし、「続けたくても I さんの居なくなったメンバーでは無理だろう」とも言われていたので・・・
残されたメンバー達の事を考えると何も言えなかったんです。

次に皆んなが顔を合わせたのは  I さんの四十九日が終わってしばらく経ってから。
いつも行ってた居酒屋で、いつも一緒に飲んでたリーダーEさん。サックスHくん。そして〜ドラムのGと私達4人。
いつもの顔ぶれでした。
皆んなで集まって、四十九日は近親者のみで静かに終わったことを教えてもらい、それぞれの近況を報告しながら、他愛のない話をしをしたり、いつも食べていた ご飯を食べて、前と同じお酒を飲んで・・・
集まってる面子も、お店も、料理も、周りは数ヶ月前のままで何にも変わって無いのに・・・
私達は、皆んな何かが以前とは違っていて、笑ってるのに「笑ってない」ような・・・
結局、メンバー達はその後のバンド活動をどうするか?
その時は「まだ決まってない」って事でした。
それでも、メンバー達も飲みに出るのは久し振りだったらしく居酒屋2軒ハシゴして終電の時間に解散。
それぞれ帰宅する為にバラバラの電車へ乗りましたが、私とGは同じ路線だったので一緒に電車に乗って、なんて事ない話しをポツポツとしながらも・・・
その日は平日で、仕事終わりに真っ直ぐ行ったもので、ジャケットにパンプスといった「お仕事用」の服装だった私を眺めながら「そうだよな〜もう学生じゃ無いもんな。すっかり格好が違うじゃん」というGの隣で「何にも変わってないよ〜」と、言いかけたものの・・・
「もう。。あの頃とは皆んな違うんだな・・・」と、少し寂しそうに言って窓の外を眺めているのを見て、あれだけ皆んなで頑張って、ようやく人気も出て来て「これから」って時に、突然何もかもが変わってしまった事を全て知っていながら、それ以上何も言える訳もなく・・・
涙が溢れそうになるのを堪えながら一緒に暗い窓の外を眺めているしか出来なくて・・・すぐにGの降りる駅になり「じゃあ。。またな。」と、目を合わせずに手を振って降りて行くのを見送ったあと、1人で電車の中で大泣きしてしまいました。
電車に乗ってた他の人達には変に見られてただろうなぁ・・・と、後から思いましたけど。
そこは東京。どうせ知ってる人なんて居ないし「まあいいか」でした。

それからは、とにかく毎日、仕事に夢中でした。
やりたかった仕事をどんどん出来るようになっていくのは楽しくて、どんな事でもやりたくて、自分の体調管理を忘れてるほどでした。
ちょっと風邪気味になってたのに構わずに居たら、スッカリこじらしてしまい咳が止まらず発熱。
さすがに、その日は休んで家で寝ていたものの、元々、子供の頃から喘息が少しあった事もあり、咳の発作から呼吸困難になり困って友達に連絡したら救急に連絡してくれて、結局、救急車で病院へ運ばれました。
そのまま入院になり、職場の人が北海道の親にも連絡して急遽、母が上京して来る始末。
ところが、入院して1週間が経っても熱が下がらず、咳も治らなかったため気管支の専門病院へ転院する事になり、国立の大きな病院で色々検査したところ「マイコプラズマ肺炎」とのこと。
今では、よく聞く病気の1つですが当時はまだ珍しく、治療方法がハッキリしてなくて、結局1ヶ月の入院となってしまいました。

その間、直属の上司は社長や幹部に色々と注意されたらしく・・・
退院して仕事に復帰してからは、現場に行くのも禁止。夜間の仕事もダメ。
事務所での仕事中心で、ほぼ定時で帰されてしまうようになりました。
初めは「元のように仕事をさせて欲しい」とも言いましたが、先輩達に、私が入院してしまった事で「随分と問題になったんだから大人しくしてなさい」と教えられ・・・自分の自己管理が出来なかったせいで、周りに大迷惑をかけてしまった事を痛感し、泣く泣く帰るしかありませんでした。
それからしばらくして、昭和天皇がご崩御され街中の照明は消され派手な飾り付けや賑やかなイベントも自粛になり、クリスマスや年末年始の飾り付けもキャンセルされ、どんどん仕事が減りました。
それだけがキッカケでは無いものの、私が所属していた「企画デザイン室」は室長が会社から独立し、別会社となる事が決まりました。
私も一緒に行きたいと希望は伝えましたが、まだまだ即戦力になるほどの力は私には無く、室長も独立して人を雇う余裕は無い。との事で・・・
違う部署に移って、そのまま会社に残るか?
一緒に仕事をしていた関係会社へ転職するか?の2択しか無く・・・。
随分と悩みましたが、ちょうど両親にも「帰って来い」と言われていた事もあり、北海道へ帰る事にしたのでした。
あの頃の私は、色々な事があり過ぎて、少し疲れていたのかもしれません。

北海道へ帰る事を決めた時、1番最初に連絡したのは G でした。
いつもかけていた電話番号へ電話をすると以前と変わらない声が聞こえ、話してるうちに会う事になりました。
随分と久し振りだったので、お互いに話す事が色々あり過ぎて、昼間の明るいうちに会ったのに気が付くと終電の時間になってるくらいでした。
その頃、ちょうどG達のバンドは再出発する為に新しいボーカリストを迎える事になりオーディションをし、新メンバーが決まって初めて発売するCDをレコーディングしたばかりだったそうで、以前のような明るい声に戻ってました。
私が「北海道へ帰ろうと思う」と、話すと初めは少し驚いていたものの「自分で考えて決めた答えなんだろ?」と、言われ「うん。」と答えると「じゃあ・・・何も言う事は無いさ。うん。」と頷いてました。
終電の時間になり、一緒に電車に乗ってから「まぁ・・どこに居たって会おうと思えば会えるさ。元気で頑張れ!」と言って、今度はちゃんと顔を見て「じゃあ〜またな。」と笑顔で手を振って降りて行きました。

結局、新しいボーカルを迎えて再出発をしたバンドでしたが、シングルCDとアルバムを1枚出しただけで上手く行かず1年後に解散となったようですが・・。

そんなGと、次に会ったのは、ほんの数年前のこと。
それまでは年賀状のやり取りくらいで、連絡を取ってたほどじゃ無かったのですが・・・
たまたま、その少し前に連絡が着いて、バイク仲間と2人で北海道へツーリングに来ると言うので、帰りのフェリー乗り場で会えました。
もう、お互いに家庭や家族があって、すっかり歳も取ってましたが・・・
GはやっぱりGのままでした。

あの時、あの事件が無ければ・・・と、考える事が無かったとは言えません。
でも、これが私達の運命だったのだと、今は思っています。
それが、私にとっての「昭和」という時代の終わりなのでした。。。


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