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大好きなおっぱいとバイバイした夏

今から約5年前。娘、1歳7ヶ月
暑い夏の日。

それは私と娘が授乳をやめた日。

私はあの日のことを一生忘れないと思う。

何歳になっても、ずっとずっと覚えておきたい大切な記憶。娘にも伝えていきたい大切な記憶。

私にとって、娘を母乳で育てた1年7ヶ月は、
娘と作り上げた初めての長い長い物語。


生まれたときのこと

6年前のクリスマスイブの日。

32時間もかかって生まれてきた娘。

私は二晩もの間、3〜5分おきにくる陣痛の波に朦朧としながら、彼女をこの世に迎え入れた。

無事に産み終えた達成感と多幸感の中、
あのふわふわで湿ったような感触と匂いに、
まるでしがみつくように彼女の顔に自分の顔を近づけた瞬間の幸せ。
たぶん、あの時の幸せは、
もう一生味わえないとさえ思う。

今でもどうにかしてあの感覚を味わえないかと思うけど、方法を思いつかない。

6歳になった娘にしがみついたところで、
あのホヤホヤ感はすでに探し出せなくて、
『おかあさん、ちょっともう離れていいよ』と言われるくらい。


あんなにも長丁場だったお産を終えた後も、

完母(完全母乳)希望だった私は、
出産当日から娘と同室したい!!と病院のスタッフさんにしつこくお願いした。

娘が生まれるまでの3日間、ほとんど飲まず食わずのうえに、
陣痛中ゲロゲロ吐きまくっていた私を知っている
スタッフさんや、旦那さんや、私の母は、
『とにかく今日は預けて休みなさい!』
としきりに言ったが、

私は聞かなかった。


私は助産師をしていることもあって、
出産当日から同室して完母で育てることは、むしろ絶対だった。
そうじゃないといけない!!と
今思えば、変なプライドや義務感からくるこだわりもあったような気がする。

だから、出産当日の夜も、何度も泣いて目覚める娘に授乳し、廊下を抱っこして歩いたりした。
助産師と言えど、自分の胸を自分の赤ちゃんに吸わせるのは初めてだったので、とてもドキドキしていた。


身体は疲れているはずなのに、
不思議と辛いとゆう感覚は全くなく、
小さな奇跡みたいな存在が、今、こうやって
ベッドの隣にいることを何度も何度も確かめていた。

産後2日目には、
娘の泣きに応えて、ひたすら吸わせていたので、
乳頭が切れ、血豆と傷だらけだった。

吸わせるたびにひどく痛かったけど、
私はその傷や痛みすら、誰かに訴えることはなかった。

そんなことはどうでもいいと思えるほど、
娘におっぱいを与えることに必死だった。
ホントに痛かったかどうかさえ、今は思い出せない。

そんなふうに、最初の1ヶ月くらいは、
私と娘の、若干、血祭りのような
おっぱいライフの幕開けだった。


私達のおっぱいライフ

それから一年7ヶ月の間。

くる日もくる日も授乳した。

暑い日は私も娘も汗だくになった。

夏は家の中ではとにかく常に上半身裸でいたいと何度も考えた。
宅配の人が来る度に、玄関前で服のボタンが全開なのに気づいて、慌てて留めるのは日常茶飯事。


寒い日は、布団に潜り込んで寝ながら添い乳し、

バスで娘が泣き止まなくて困り果てた私は、
後部座席で、隠れるようにして授乳した。


黄昏泣きが酷かったうちの娘は、
とにかく夕方4時頃から夜の7時まで延々と泣き続けるような子だったので、

日曜日は決まって、ちびまる子ちゃんが始まって、サザエさんが終わるまで、
ソファに座ってひたすらに、廃人のように授乳した。


娘が、言葉を喋り出してからは、授乳して欲しいときには
『オッペイ!!』とおねだりするようになった。
終わる時は、『ないない』と言った。


断乳した日のこと

そんな思い出がつまった授乳を、娘が1歳7か月で終えることに決めたのは、2人目が欲しいからだった。

私には重度の婦人科疾患があり、
早めに2人目を妊娠しないと、病気が進行するので、
夫婦で早く不妊治療を再開しようと決めていた。そのためには、断乳は絶対条件だった。


あれは7月の日曜日。
とても暑い日。

断乳するには本来夏は向いていないのだけど、
私の断乳する決心は、なぜか夏に到来した。
助産師としては、あるまじき決断だが、母としての決心は、なぜか揺らがなかった。

カレンダーの断乳日にアンパンマンの絵を描き、
1週間前から、娘にそれを見せながら
『この日におっぱいバイバイだよー』と毎日言い聞かせた。

(画力が乏しいのはスルーしてほしい…。)

娘は毎日、私が描いたアンパンマンとおっぱいであろう絵に、健気にバイバイと手を振った。

正直、私はとても不安だった。


娘はまだその頃も休みの日は1日10回近くおっぱいを吸っていて、
暇さえあれば、『オッペイ!!』と言いながら近づいてきた。

おっぱい星があれば、間違いなく娘が幹部を務めていたのではないかと思うほどのおっぱい星人だったと思う。

よく、断乳した日から、三日三晩おっぱいを求めて泣き続けたという話を、先輩ママさん達からまるで武勇伝のように聞いていたので、
娘の場合、いったいどれぐらい泣き続けるだろうか…とそれはそれは恐ろしかった…。


断乳当日。

朝10時頃。

最後の授乳は執り行われた。

娘に、『これが最後だよ。おっぱいはもうバイバイだよ』と話してから、授乳を始めた。

娘は、いつもと変わらない様子で飲み始めたけど、
やっぱりそれはいつもとは少し違っていた。


何度も何度も、おっぱいから口を離し、
私の顔を、二パッと笑顔で見上げた。


私の心配をよそに、むしろ最後の晩餐を心ゆくまで満喫しているような様子だった。
なんだか我が子ながら、たくましく思えた。


そんなたくましい我が子と、
最後の授乳をしながら、どこかとても満たされて、感慨深い思いの私の側で、

1人、嗚咽が漏れるほど泣いていた人がいる。


うちの旦那さんだ…。



私達の最後の授乳を見守りながら、

『あおちゃんもこれでもう吸えないんやな。お前も毎日よく授乳がんばってくれて、ありがとう。』

と言いながら、ボロボロ泣いていた。

もはや、旦那さんも息子のように思えて、私の涙は引っ込み、そして笑った。


私は、これまでこうやって毎日授乳を続けてきたことの尊さと、やっぱり旦那さんはどの家でも、長男みたいなものだという事実を思い、
母というのは、こうやって強くなるのだと確信した。


蘇る思い出

最後のおっぱいを心ゆくまで満喫している娘を
見ながら、私はこれまでのことを思い返していた。

娘が新生児の頃は、私の母乳は本当に足りているのかな…と不安でたまらなかった。
突如やってきた自分よりも大切な命を守らなければ…という責任感で、押し潰されそうな思いで授乳していた。

娘が笑うようになってからは、授乳の途中でおっぱいから口を離して、私を見て何とも言えない笑顔で笑ってくれる瞬間がたまらなく幸せだった。


子育てサークルで、どの子もみんな泣かずにおもちゃで遊んだり、抱っこされていい子にしてるのに、

うちの娘だけずっと号泣で、
支援員さんが抱っこしようものなら、更に号泣がひどくなる娘と、ひたすら授乳室にこもって授乳した日。

自分と娘だけが、キラキラした子育ての世界から取り残されていくような感覚だった。


こんなお母さんでごめんね…とゆう罪悪感や劣等感に似た想いを抱く私をよそに、


娘は、
『そうそう。わたしはこうゆう集まりより、ずっとあなたとこうしていたいよ』とでも言っているかのような落ち着きっぷりで、私に抱かれていた。


ほとんどの人が断乳して入園する保育園。
娘も1歳で入園したが、
保育士さんにこのまま授乳を続けたいと頼み込んだ。

おっぱいを吸いながら寝ることが習慣になっていた娘は、お昼寝でうまく眠れず、お迎えに行くと必ずと言っていいほど、保育士さんにおんぶされていた。


そんな姿を見て、おっぱいを続けたいと思うことは
私のエゴでしかないのかな…と悩んでいた日々。

でも、そんな不安げな私の気持ちを理解してくださっていたのか、

保育園の先生達からは、
『おっぱいは大切なコミュニケーション。お母さんが納得するまで続けてあげて』と
いつも背中を押してもらっていた。


そんなサポートもあり、仕事復帰しながら半年以上も
授乳を続けることができた。

仕事で疲れ果てた私と、保育園でおっぱいも我慢し、初めて私と離れて頑張っていた娘は、
帰宅後すぐのおっぱいタイムでお互いを落ち着かせた。

家事に取り掛かる前に、唯一ホッとできる時間だった。


そんな日々が、走馬灯のように蘇って、
授乳が終わっても、もうこれで吸わせられないなんて
信じられなかった。

娘は心ゆくまでおっぱいを飲み干し、

自分から
『オッペイ、ないない!!バイバーイ』と言って、
私の服を下ろした。  


なんだかとても誇らしげな娘。
私は、『ほんとにいいの??』と、聞いたけど、娘は下の写真を見ての通りの笑顔だった。


写真は、最後の授乳を終えた娘と私。



その授乳を最後に、娘からおっぱいを欲しがることは一度もなかった。


不安だったその日の夜も、少し泣いたぐらいで、
抱っこすればすぐに泣き止み、眠りについた。

娘なりに理解し、我慢しているようだった。


私は、断乳した日と翌日はとても寂しかった。

娘との絆が一つなくなったような気がして、
お母さんの特権が一つなくなって、
このまま娘と距離ができてしまうような気がして、
今すぐにでもまたおっぱいを吸わせたくてたまらなくなった。


おっぱいがなくても公園で思い切り走り回って過ごしている娘を見ながら、安心している反面、ちょっとだけ落ち込んでいた。


万が一、娘が欲しがってどうしようもなくなった時のために私はおっぱいにアンパンマンの絵を油性ペンで描いていた。

これを見せて、娘に、『おっぱい、アンパンマンになっちゃったね。バイバイって言ってるよ』と言い聞かせるために。

でも、その絵を娘に見せることは一度もなかった。

彼女は自分自身で納得し、
華々しく、そして潔く、わたしのおっぱいから離れていった。


断乳から5年経って思うこと

きっと子育ては、ずっとこうゆうことの
繰り返しなのかもしれない。

子どもはいつだって前を向いていて、今この瞬間にいる。

過去を思って懐かしんだり、嘆いたり、
未来を不安に思うのは大人だけなのかもしれない。


あっという間に、走り抜けていってしまう子ども達を見失わないように、今の娘のことも、今の私のこともしっかり感じていたい。


あの日、とんでもない難産で
娘が産まれてから1年7か月もの間。


私は、来る日も来る日も授乳をし続けた。
なんの後悔もないと思えるほど。


春、夏、秋、冬と…季節が巡る度に、

夕陽が沈むと不安になり、夜中は孤独を感じ、朝日が昇ると少しだけ自信がついて、変わらずそこに小さな命があることを奇跡みたいに思った。


あんなにも不安で、寝不足で、暑かったり、寒かったり、痛かったり、自由がなくて、永遠に続くかのように思われていた日々は、確実に終わってしまった。


今振り返っても、こんなにも愛おしく、懐かしく、
私を満たし続けてくれる。


あの断乳した日、

一度も娘に見せることなく終わったおっぱいに描いたアンパンマンの絵は、

お風呂に入ろうと服を脱いでみたら、

夏の汗でドロドロになって、
まるでホラーのようになっていたことを、

いつか大きくなった娘に、感謝とともに、
笑い話として伝えたい。


#キナリ杯 #断乳 #母乳育児 #完母 #子育て




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