「親ガチャ」成功と失敗を決定的にするたった一つのこと

ある日、父との電話中に

「日本では親ガチャということばが流行っている」ということを私に教えてくれました。

「親」ということばと「ガチャ」ということばを合わせるなんて、
キャッチーな聞こえの造語をうまいこと考えるもんだな、と感心しつつ

「世界」の二極化はここまで進んでるのか、すごいな、とも思いました。
どんな人に囲まれてどんな気分で過ごすかって、実は自分で選べるんですね、っていうそんな二つ(細かくはもっとあるけど)の異なる世界。

親ガチャが「成功」か「失敗」か、

それを二分するたった一つのキーワードはこれしかないのだけれど…

「選択」ですよね。

ちょっと、とんちみたいに聞こえるかもだけど

どんな親を選んだかの選択じゃなくて
成功か失敗かの二択というわけでも実はなくて

「親は選べないから自分のこの境遇は親ガチャ失敗/成功(←ここは実はどっちでもいい)」
って言いながら生きることを選んでもいいし、

そう言いながら生きることを選ばなくてもいい。

自由。

親が物質的にお金持ちでも貧乏でも、
世間からみた家庭の事情がどれだけ恵まれていても悲惨に見えても
物理的/習慣的な遺伝がどうとかも

それのせいで自分は◯◯だから親ガチャ失敗と言って生きる道を選んでもいい。

それのおかげで自分は◯◯だから親ガチャ成功と言って生きる道を選んでもいい。

親ガチャがどうとか考えて生きる道を選んでもいいし
親ガチャ?なにそれおいしいの?って生きる道を選んでもいい。

要するに、実は、どっちでもいい。

どんな選択をした人たちとどう過ごすか、も選べる。

成功も失敗も良いも悪いもないから。

自分の人生は、
自分の生まれ持った何か生まれ落ちた環境じゃなくて、
自分の一つ一つの選択がつくっているだけだから。

貧困だから、病気だから、こういう見た目だから、こういう境遇だから、まわりがこう思うからこう言うから、選択肢が増える減るというより

自分の手の中に選択肢はいつも転がっていて

どんな選択肢があるのかを見る「目」があるか
どの選択肢を選ぶと決める「意図」があるか

それだけなのかなぁと。

ちなみに、そもそも

「親ガチャ」のベースの考え方が「親は選べない」という前提らしいのも、へぇ〜おもしろいなぁと思います。

親は選べる、って思って生きることも
親は選べない、って思って生きることも

これも選べる(ことば遊びみたいになってきた笑)。

私は、自分で親を選んで生まれてきた自覚と自信が今はあるので、
親ガチャ議論にはそもそも外れているかもですが。

もちろん親を選んだ記憶はすっ飛んでいて
この親/家/境遇をなんで選んできたんだろう?私。の答えを探すという、生まれてきて生きていく醍醐味のひとつをとっておくために
敢えて忘れるデザインにしてきたんでしょうね。

粋。(!)

死ぬほど苦しい思いも、つらい体験も、
どんな感情を持ってもどんな言動をしても、

そこにはそれを選んでいる自分がいることを見つけて
あら、自分がこの景色を見るためにいろいろ選んできたんだーすごいなー天才だな、自分。
って思える選択かどうかっていうのを基準に選ぶのもいいかもしれません。

ちなみに、

親や境遇に恵まれてるなぁ(「成功」?)と思う時期もあれば、
他の家と比べることで自分の家や親を責めたり(「失敗」?)した時期や年齢もありました。

他人軸の生き方と向き合いそれをようやく手放して
自分軸で生きられるようになった今はとくに
親や家族に愛と感謝しかありません。

自分のどんな捉え方も、良い悪いでジャッジせず

どんな選択をしても、

実は、人生ガチャの中身の選択肢カプセルも自分で常にデザインしているらしいって思って生きると

ちょっとおもしろいのかも。

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