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【小説】アリバイ崩しの長谷川

 刑事暦三十年になる長谷川は〈アリバイ崩しの長谷川〉の異名で知られ、その名のとおり、彼に崩せないアリバイはなかった。

 今度もまた、遠方の部下からその天才的な頭脳を貸してほしいと要請を受ける。

 惨劇の舞台となったのは、山奥の宿泊施設。〈円館〉という名の其処は、一風変わっていて、簡易的な円柱形の建物が地中に埋まったかたちとなっている。ゆえに、各部屋に天窓が嵌め殺しとなっていて、地上部の玄関以外に出入りできる口はない。殺人があった夜、玄関扉は内側から施錠されていたために〈円館〉はいわば密室状態で、容疑者は内部に限定されていた。

 泊まっていたのは夏休みの大学生たちで、同じサークルのメンバーだった。被害者は山元カケル。容疑者は伊藤真子、沢明枝、松野みどり、飯田唯の女子四人。山元カケルは彼女達全員と過去に関係を持ったことがあるらしく、動機は痴情のもつれであると思われた。

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 部屋割りを簡単に示した図と共に、長谷川は問題のアリバイについて子細に聞いた。

 二十一時から、皆は居間に揃って食事をしながら談笑していた。ただひとり、被害者の山元だけははじめに皆の前に顔を出すと、頭痛がするから部屋で休んでいると云って引っ込んで行った。

 二十一時十分、伊藤と飯田の二人で山元の部屋に食事を運んだ。このとき、山元はまだ生きていたと二人は云う。山元と三分ほど話してから二人は部屋を出て、伊藤はすぐに居間に戻ったが、飯田は自分の部屋に携帯電話を取りに行くと云ってそのとおりにした。飯田が一人になっていた時間は二分ほどであり、彼女がちゃんと自分の部屋がある方へ行って、同じくそちらから戻ってきたというのを、居間にいた者達は見ていた(居間から廊下に出入りできる二ヵ所にはどちらも扉がないので、誰かが廊下を通ればちゃんと分かるらしい)。

 二十一時三十分、沢が地上部にあるトイレへ行く。これもすぐに戻ってきた。また、トイレへ行くように見せかけて山元の部屋へ行くというのはまず無理である。

 二十一時四十五分、飯田がシャワーを浴びに行く。一度自分の部屋に行って着替えなどを取ってくると、地上部にあるシャワー室へ。彼女が再び居間に下りてくるのは、二十二時十分だ。

 飯田がシャワーを浴びている間、二十二時丁度に松野が自分の部屋から菓子を取ってくるが、これは一分にも満たない出来事だった。このときには既に、伊藤は居間で居眠りを始めていたらしい。

 飯田が戻って、交代で松野がシャワー室に行く。二十二時十五分。このときから、沢がいきなり運動したいと云って、廊下をぐるぐると一人で走り始める。伊藤は相変わらず眠っていて、飯田は携帯電話をいじりながら、ほぼ一定の間隔で居間と廊下を繋ぐ二ヵ所の前を通過する沢を眺めるともなく眺めていた。不自然に間隔が空くようなことはなくて、そのペースもいくらか速めだったから、途中で山元の部屋に立ち寄っている暇はなかっただろうという証言だ。

 二十二時三十分。沢はランニングをやめて、居間で飯田と話している。そこに松野が戻ってくる。次にシャワーを浴びようとする沢が部屋に着替えなどを取りに行くのと共に、飯田と松野が山元の様子を見に行く。

 そして二人は、山元の死体を発見する。二十二時四十分。

 山元は首を絞められて殺された。凶器は靴紐。これは山元の靴から抜かれていて、死体の傍らに残されていた。死亡推定時刻は二十一時半から二十二時半。抵抗した様子はあまりなく、死体がベッドの上で仰向けになっていたことからも、眠っているところを殺害されたものと思われる。ならば悲鳴をあげなかったのも無理はない。

 以上が、もたらされた情報だった。

 これを聞いてすぐに、長谷川はさっそく推理をひとつ披露した。

「二十二時十五分から二十二時三十分のどこかで、飯田が山元の部屋に行って彼を殺害するのは可能だったんじゃないか? つまり松野はシャワー室にいて、伊藤は眠っていて、沢は廊下をぐるぐる走っていた時間帯だ。沢の走るペースはほぼ一定だったと飯田は云っている――つまり、タイミングを計ることもできたはずだろう。沢の目につかないように、山元の部屋に行って帰ってしたのだ」

 しかし、残念ながらこれは可能とは云えなかった。沢もまた、居間と廊下を繋ぐ二ヵ所の前を通過する際、居間にいる飯田を見て、頻繁に声を掛けるなどしていたようなのだ。どこか可能なタイミングが一度もなかったとは云いきれないものの、飯田からすればそれを見計らうことはできず、その犯行はあまりにリスキーである。

「そうか。まぁ、難しいアリバイとは思えんな。一週間もかからずに崩せるだろう」

 長谷川は経験に裏打ちされた確かな自信と共に、そう宣言した。

〈アリバイ崩しの長谷川〉の、本格的な思考が開始される。

 報告によれば、犯人は単独犯と見て間違いないらしい。全員が結託して山元を殺し、庇い合っているとは考えられないようだ。むしろ、互いに陥れ合おうとしている気配さえあるという。女子……しかも色恋の絡んだ女子とはそういうものだ、と長谷川は苦笑する。

 だが、予想に反して、このアリバイはなかなかの難問だった。鉄壁と云うには、ところどころに隙があるように見える。しかしながら、その隙に着目するとたちまち靄に包まれるかのように、掴みどころを失ってしまう。シンプルなようでいて、考えていくといやに複雑だった。長谷川の態度も、徐々に真剣みを増していった。

 もちろん、それぞれの時刻については、絶対に正確ではないだろう。百戦錬磨の長谷川からすれば、それは当然の前提だった。場合によっては時間経過や前後関係にも、細かな記憶違いが起こる。ゆえに、もしかしてここは違うんじゃないだろうか……というふうにいくつもの仮説を立て、可能性や妥当性を探っていく。必要に応じて、部下に追加で調べてもらう。その報告を受け、再び推理を練り直す。

 そして、気付けば一週間が経過していた。

 長谷川は愕然とした。信じられなかった。

 分からないのだ。

 記憶違い、嘘の証言、遠隔トリック、鏡を用いたり言葉の綾を利用したりする種々の誤認トリック……ありとあらゆる可能性を検討した。閃きを誘発する独自の方法論など、これまでの経験から培ってきた技も総動員した。にも拘わらず、いたずらに時間だけが過ぎていって、長谷川はこのアリバイを崩すにまったく至っていなかった。

 まずい。この〈アリバイ崩しの長谷川〉が、敗北するようなことがあっては……。

 そこに、部下から電話がきた。相手の声は、妙に軽やかだった。

『あ、お世話になってます、福辺です。長谷川さん、例の〈円館〉事件の犯人なんですけど、捕まりました。自供したんです』

「なんだと!」

 長谷川は受話器を取り落としそうになった。

『実は、アリバイを破る必要はなかったんです。すんません、こんな単純な事件でお手を煩わせてしまって』

「どういうことだ。誰なんだ、犯人は」

『クロセキテツヤです』

「……クロセキ? 誰だそいつは?」

『クロセキですよ。玄関と書いてクロセキ。玄関徹也。いやぁ、てっきり痴情のもつれかと思って女連中だけ疑ってましたけど、山元ばっかりモテることに嫉妬していたクロセキが彼を殺したってだけでした。クロセキのアリバイは穴だらけでしたし』

「おい……まさかこの部屋割り図、右上の〈玄関〉って、ゲンカンじゃなくて、クロセキの部屋って意味だったのか……?」

「え、そうですよ? 云ってませんでしたっけ? 玄関は地上部にあって、居間にある梯子で上り下りするんですよ。ははは、まさか長谷川さん、これをゲンカンだと思ってたわけじゃありませんよね? ……あれ? 長谷川さん? もしもーし?」

 長谷川は脳の血管が破裂して病院に運ばれた。


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