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【小説】蝸牛

 この頃、朝起きると右耳の奥でゴソゴソと音がする。気になるっちゃあ気になるけど、そのほかに異常はないし、痛いわけでもないから放っておく。

 それとは別に、学校で不思議なことがある。友達が昨日の夜に親と喧嘩した愚痴を話してくるんだが、何となくその話に聞き覚えがある。

「そこでまた持ち出されんのが兄貴の話っすわ。兄貴はもっと優秀だった、とかな。しかも昨日はエラい名言が出たぜ。『折角、お兄ちゃんが頑張ったのに――」

「――あんたのせいでプラマイゼロだよ』……ってやつか?」

「うお。凄いなお前。こんな悪質な文句がよく当てられたもんだ」

「……いや、その話、前にもしなかった?」

「してねぇよ。昨日の夜の話だって云ってんだろ。ん、日付的には今日だったか」

「ならその言葉、どっかのドラマか何かから引っ張ってきたセリフなんだな。覚えがあるもん。デジャヴっつーか」

 しかし違う。翌日にはまた、今度は別の友人との会話だが、そいつが昨晩はなかなか眠れなくて深夜番組を見ていたらそれがとても面白かったという話をして、俺はその話についていける。俺の方はいつも寝るのが早くて昨晩もそうで、そんな番組の存在も知らなかったはずなのに、会話を合わせることができてしまう。

「あとさ、なんかお前……ポテチか何か食べながら見てただろ」

「んー? そういや食ってたな。何で?」

「いや、悪い。何となく……」

 気味悪がられてしまいそうだったし、俺自身とても気味が悪かったから、適当に誤魔化す。その深夜番組も見ていたことにする。

 こういうことが続く。いずれも俺が眠っていた間の知らない出来事について、ちょっと聞くと〈思い出す〉。小さな地震があっただとか、父親が遅く帰ってきた時刻だとか、友達が恋人と電話で一晩続けた痴話喧嘩だとか……。俺ははじめ夢遊病を疑っていたが、それじゃあ説明が付かないものばかりだ。

 挙句の果てには、俺の住む町で起きた殺人事件の犯人が分かってしまう。被害者は一人暮らしの男子大学生でなかなかのプレイボーイだったらしいんだけど、いよいよ女性関係がこじれて部屋で殺された。深夜、出刃包丁で全身を二十八回刺されたんだとか。このニュースを耳にした瞬間、俺の脳裏には会ったこともないその被害者が殺される前に犯人と口論していた様子が蘇り、その中で相手の名前も呼んでいたから、それが分かる。さすがに怖かったので誰にも教えなかったが、三日後にその通りの犯人が逮捕された。

 ……もしかして俺は、超能力に目覚めたんだろうか? 千里眼か何かの。

 ちょっと困る。いや、かなり困る。俺は平凡に生きていきたい。超能力なんて手に入れたところで俺はそれを活用して社会貢献なりビジネスなりしていこうとは全然思えなくて、しかしオンオフが効く類の能力でもなさそうだし、これは平凡に生きていくうえでめちゃくちゃ煩わしい。それに、超能力ってやつを持つと、それを使わなきゃいけないんじゃないだろうかって義務感が勝手に芽生えて、平凡に生きていきたいなんて考えている自分が情けないっていうか申し訳なく思えてくる。厄介だ。

 だが俺が自分の意志とは無関係に超能力を発揮し始めてから一ヵ月が経ったころ、そのタネが割れる。

 いつもより一時間くらい早く目が覚めた。そして違和感を覚えた。違和感の正体にはすぐに気が付く。右耳が聞こえないのだ。左耳を塞ぐと無音状態。え? え? 焦る。朝起きると右耳の中がゴソゴソするってのは相変わらず続いていたけど、とうとう聞こえなくなってしまったのか? こんな唐突に?

 ベッドの上で呆けていると、視界の端に妙なものが映り込んだ。床の上を意外に素早い動きでこちらに近づいてくる……あれは、小さな、蝸牛か?

「あっ」

 違う。蝸牛――カタツムリではなく、カギュウだ。またの名を、うずまき管。耳の中にある、聴覚を司る器官。そいつは俺の足から這い上がってきて、あっという間に右耳の奥へと潜り込んでいった。

 ゴソゴソ……ゴソゴソゴソ……蝸牛がいつもの定位置に収まろうと、耳の中で身動きしているのが分かる。しばらくしてその音が止んでから、俺は必死に思い出そうとする。眠っている間に〈聞いてきた〉一部始終を……。

 果たして、断片的に蘇っていく。リビングで母親が何か熱い飲み物を啜りながら深夜ドラマを見ていたらしい……車の走行音……外に出たんだ……どこかの家で行われる家庭内暴力……タクシーに乗った……運転手と客が昨今の不景気について話している……ラジオの音声……おでんの屋台で酔っ払った客が交わしている会話……次は情交に耽る男女の声……あ、この声は隣のクラスの関口さんとその担任の国語教師じゃないか……ラブホテルに行ったんだ……他の部屋も次々に巡る……不倫、援助交際、強姦、信じられないような性癖の数々……「うっ、エー」俺は吐いた。

 俺の右耳の蝸牛は毎晩、ひとりでに町を這い回っていたのだ。俺が目覚めるころになると帰ってきて、ゴソゴソと元に戻る。蝸牛が聞いてきたすべては、俺の脳に残る。知らないはずのそれらだが、ふとした拍子に〈聞き覚え〉として蘇るのだ。

 封印しなければならない。こんなのは覗きと同じだ。俺は知りたくない。それに、もし外に出ている間に蝸牛が踏まれたり鳥や虫に食われたりしたら……ああ、想像しただけでまた吐きそうだ。

 その夜、俺は寝る前に右耳に耳栓を嵌めて、さらにはセロハンテープで塞いだ。これで蝸牛は勝手に出て行ったりしない。

 しかし、これは失敗だった。出口を塞いだりしてはいけなかったのだ。好きにさせてやるべきだったのだ。外に出ていけなくなった蝸牛は、代わりに俺の脳を食い荒らし始めた。出口を求めて、俺の頭の中を、縦横無尽に。あっあっあっ。ベッドの上で声にならない絶叫をあげながら暴れ狂う俺だけれど、すぐに何も考えられなくなる。あっあっあっ。あっあっあっ


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