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【随想】メタ意識のすすめ

 メタレベルという言葉がある。

 これは”一段高いレベル”という意味で、小説や漫画、映画などの創作においては、〈物語〉に対する〈作者〉がメタレベルとなる。

 そんなメタレベルについての意識=メタ意識は、しかし充分でない場合が多い。メタ意識とは自覚だ。自覚なくして責任は持てない。メタ意識を徹底することではじめて、作者は自らの創作のすべてに責任を持つことができる。

 そして私が思うメタ意識の目的とは、物語を単なる嘘にしないことだ。

 この文章は、そんなメタ意識の習得を目的としている。読み終えたときには、ありとあらゆる物語に対する見方が一段高くなることだろう。


1.段ボール肉まんじゃないんだから

 物語内で起きる事柄はすべて、物語内の理屈のみで成立していなければならない。そこにむきだしの”作者の意図”や”作者の都合”が混入していると、物語はつくりものであることが露呈し、純粋性を失う。

 これがメタレベルの混入である。

 よく”ご都合主義的”と云われて批判されるものの正体がこれだ。「こんな展開は都合が良すぎる」というのは、物語内の理屈で以て説得ができていない。つまり物語の一部を作者の都合が機能させてしまっているというわけである。物語への没入度が損なわれて、めちゃくちゃ白ける。

 物語それ自体として成立しているかどうか。物語の強度はそれで決まる。

2.おれは約束なんてしてないぞ

 ただし、メタレベルの混入が一定許容されるケースがある。”お約束”と呼ばれるものたちだ。ジャンルごとに多かれ少なかれ存在する。

 たとえばミステリでは、”巻き込まれ型の探偵”が挙げられる。行く先々で事件に巻き込まれてしまう探偵なのだが、これは”そういうもの”として暗黙の了解となっている。その必然性が物語内で持たされていないのが大抵だ。

「だってそうしないと話がつくれないんだも~ん」と、よく云われる。

 いやいや。考えようはいくらでもあるだろう。探偵が来たことが環境に作用して事件に繋がっていたりとか、犯人がその探偵を巻き込むことを犯罪計画の中に組み込んでいたりとか。

 しかしそういった配慮を放棄して、お約束に甘え、物語がつくりものであることを開き直っているとしたら、お約束の範疇である以上、ミステリとしての質には影響しないものの、物語としてはやっぱり成立していない。

 いくら面白くても絵空事となってしまうなんて、もったいないと思う。

3.リアルかフェイクか見極めろ

 登場人物が、これが創作の物語であることを認識している場合がある。メタフィクションというやつだ。作者や出版社の事情なんかに言及する”メタ発言”も含む。

 これもまた”そういうもの”なのだが、非常にたちが悪い。

 メタレベルの混入であっても、作者が意図的に、つまり自覚的にやっていれば、メタ意識はできていることになる。ただし、私が思うメタ意識の目的=「物語を単なる嘘にしない」とは真逆で、いっそ積極的に物語を嘘にする行為だ。

 登場人物が「今の俺達は現実なのか? 小説の中なのか?」みたいに疑うような話は特に困りもので、これに関してはメタ意識ができているのかも怪しい。だってあり得ないじゃん。そんなことを真剣に疑う奴がいるか? 生きている人間が「俺は紙面の印字なのかも!」なんて思わないだろう。物語内の人物にそれを云わせているのは、「メタレベルの混入による混乱を書きたい」という作者の都合だけだ。本当にそこまで自覚しているのだろうか?

 とある漫画でメタ発言を連発する登場人物がいて、これもそういう類かと思って読んでいたらそうじゃなく、この人が”「自分達が生きている世界は漫画で、自分達はその登場人物なのだ」と思い込んでいる病気の人”だと判明したときには、えらく感心した。メタ発言をする理由を物語内の理屈で以て物語内の人物が納得できるようになり、物語の純粋性が保たれたからだ。私はこういうのを”メタが出来ている”と思う。

4.物語の力を信じればこそ

 メタ意識が徹底できている作品というのは本当に少ない。メタレベルの混入を起こしていない作品となるとさらに稀有だ。

 細かく厳しく見ていけば、説明ゼリフというやつも駄目なのだ。これは読者への配慮であって、物語内の人物がそんな喋り方をする必要はない。

 物語の純粋性を保つのは、一筋縄ではいかない。

 ひとつひとつの描写について、そこに”作者の意図”や”作者の都合”がむきだしとなっていないか気を張り、むきだしになっていたなら、物語内の理屈を被せるようになおしていくこと。

 その意識のもとで創られた物語は、本当に強い。

 つくりものをつくりものとして楽しむというのも結構であり、それを否定して創作の自由度を狭める気はないが、そこに自覚があるかないかによっても話は大きく違ってくる。

 自覚は理解と繋がっている。作者、受け手ともに、メタ意識を持つことは物語の楽しみ方を必ず豊かにするはずだ。私はそれをすすめる。


おまけ.マトリョーシカ式絶対守護領域

 メタレベルの混入を防ぐのに有効な方法として、作中作形式がある。小説の中に小説が入っていたりするやつだ。

 この場合、作中作でメタレベルの混入が起きていても、それは作中からの混入であって、我々のレベルからの混入ではない。作中作内で我々のレベルに対する言及があったりしない限り、”読者への目配せ”は作中のレベルに対するものとして吸収される。

 もっとも、作中作形式であることの理由は作中において存在していないと駄目だし、作中においては相変わらずメタレベルの混入リスクがあるため、作中作形式だからってオールOKとはならない点は注意が必要だ。

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