【小説】レモンは車に轢かれた
父は私が生まれた年に会社を辞めて、家の庭をレモン畑にした。それからは母がパートアルバイトで金を稼ぎ、自分は畑に掛かり切りとなった。
父は狂人なのだ。レモンという果物に対して特殊な性癖を持っているのだ。
その奇行を、私は幼少期から度々目にしている。なかでもとりわけ不思議なのは、レモンを車に轢かせるという行為だ。大事に育てたはずのレモンを私の目の前で車道に放り投げ、グシャッと潰れたのを見るや否や満足そうな、あるいは安堵したような表情を浮かべる。私も成長してひととおりの常識を身に着けてからは、それがどんなに奇特な趣味なのか分かってゾーッとしたものだった。
私は恥ずかしかった。父は普通ではない。頭の調子がおかしい。それを周囲に知られたくなかった。小学校の高学年に上がったころには、父を避けるようになっていた。
すると父は、私を付け回すようになった。登下校中も、休日に友達と遊びに出掛けたときも、行く先々に現れては適当な車にレモンを轢かせてニンマリ笑う。気持ち悪い。そのせいで私が何人の友達を失ったことか。
父が嫌いだ。
だから昨日、父が怪我をして病院に運ばれたのを、喜びこそすれ悲しみはしなかった。そもそも父の自業自得だった。私が中学校の校門から出たところで、やはり待ち構えていた父がいつものように近くを通った車にレモンを投げつけて、それに乗っていたのがいわゆるヤクザ者で、逆上した一人が撃った拳銃の弾が胸に当たったのである。
もっとも、弾は父を貫きはしなかった。常に懐に仕舞っている一冊の厚い本が、それを妨げた。父は単に、倒れた拍子に後頭部を強打して気を失ったに過ぎなかった。
「レモン、話があるわ」
母に呼ばれた私はいま、家のリビングにて、彼女とテーブルを挟んで向かい合う格好で座っている。
「貴女に真実を話すわ」
神妙な顔付きの母。私も自然、居住まいを正した。
「これはお父さんがいつも持ち歩いていた本……ええ、凶弾からお父さんを救った本よ」
母がテーブルの上に置いたのは、穴の開いた厚い本。私ははじめてそのタイトルを見た。
「レモンは車に轢かれた……?」
思わず読み上げてしまう。すると母は「ええ」と頷いた。
「このレモンとは、貴女のことよ」
いかにも、私の名前はレモンだ。レモン狂の父が付けた名前。将来、きっと変えてやろうと決めている忌々しい名前。
「この本によって、貴女は車に轢かれて死ぬことが決定していたの」
「はぁ?」
私はさぞかし、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているだろう。
「だからお父さんはそれを回避するために、貴女を轢くはずの車に果物のレモンを轢かせたのよ。この本には『レモンは車に轢かれた』としか書いてないから、文脈の上では不自然でも、それが貴女じゃなくて果物の方だって、嘘にはならないでしょう?」
唖然としてしまって、声が出ない。
「それが貴女が三歳のころの話。これで貴女は死ななくなったと、私達は胸を撫で下ろしたわ。でも数日後、この本に続きが現れたの。もともと本文は最初の数ページだけで残りは白紙だったのだけど、そこに新たな文章が浮かび上がっていたのよ。その最後にはまた『レモンは車に轢かれた』……だからお父さんはまた、その時がくると果物のレモンを貴女の身代わりにしたわ。すると、今度も続きが……」
母は、憂愁を湛えた表情を両手で覆った。
「分かったわね? その繰り返しなのよ。この恐るべき予言の書……そこに現れる貴女の死を、お父さんはこれまで何度も何度も防いできたの。だから……」
「出鱈目だわ!」
私は立ち上がっていた。
「信じない! そんなこと……お父さんだけじゃない、お母さんも頭がおかしいんだわ!」
莫大な量の悲しみと怒りが渦巻いて、耐え切れなくなって、私は駆け出した。
こんな家、出て行ってやる!
靴を履くのももどかしく、玄関扉を開けて通りに出た瞬間、
どんっ
凄まじい衝撃を受けた私の身体は、気付けば宙を舞っていた。
眼下にはタクシー。窓に顔を着けて私を見上げている父。ああ、病院で目を覚ました彼は、周りの制止を振り払って抜け出すと、タクシーを捕まえて、無理にスピードを出させて大急ぎで帰ってきたのだ――私を死から守るために。しかし、まさか自分が乗るそのタクシーが私を轢くことになるなんて思いもせず……それは、予言の書が手元になかったせいで、昨日の校門前での死を妨げた後に更新された内容が分からなかったからで……だが、ならば母は、これを知っていたはずでは……?
私は息絶える直前の最後の意識で、真実に辿り着いた。
……母ならば、父が眠っているときにでも、予言の書に続きを書き加えることができたんだ。
遠くから、母の哄笑が聞こえた。
「ようやっとレモンは車に轢かれた! レモンは車に轢かれたんだわ! オーホッホ、オーホッホッホ…………」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?