さなえさんの戦い

オットの母、つまり姑の名前はさなえさん。
大正14年生まれ、96才の超高齢者だ。

ひとりで暮らしている。

『ちょっと一泊だけデイに泊まってみましょうか?』

ケアマネが明るくさなえさんに尋ねる。このままひとりで置いておく訳には行かず、施設に入る練習をしようというケアマネの作戦だ。

もちろん、答えはいつも『NO』だ。

今、わたしたち夫婦で二拠点に近い感じで2時間離れた実家を行き来している。やっと要支援がもらえたぐらいで、介助なしの自立と判定されている。それでも昨年からの目に見えて弱ってきた。さすがにみんなが心配して、施設に入れた方がいいのでは?と言われたりもする。

何回も試みたがその度に『わたしはこの家がいいの』と拒否される。確かに嫁いで70年以上を過ごした家を離れることは意識があるあいだは辛いに違いない。とにかく家が好きで家に執着し、嫁のわたしとしては知りもしない家自慢を聞くのは少しだけうんざりしていた。

オットはそんな母の話を聞くのが嫌でさなえはんが『この家はね…』と言い始めたらそそくさとどこかへ逃げて行った。

義父は8人兄弟の長男、かなえさんが嫁いできた時はまだ下の弟たちは幼かった。その義弟たちの世話、義父母の世話、甥姪を預かっていた時期もあるらしく、たくましく家を切り盛りしていた。姑は外での活動や畑が忙しく、家事は全て自分で切り盛りしていたらしい。

そんな嫁業まっしぐらの人生でも物足りなかったのか、さなえさんは家事だけの人生を送りたくなかったのであろう。敷地内に小さな建物を建て、ピアノ教室の経営に乗り出した。自分はほぼ弾けないのだが先生を数人雇って、多い時は100人を超える生徒が通って来ていたそうだ。
家からは一歩も出ず、というか家族の世話で出られる環境ではなく、生徒や先生を招くことで自分らしさを表現していたのかもしれない。

今はだれも使ってない昔の面影が残る教室を掃除していたら、反対側の縁側にかなえさんが椅子に座ってぼんやり教室側の庭を長い時間眺めていた。

その姿を見て、ひとり置いておくのは心配だが
ここ以外かなえさんの行くところは無い気がしてきた。ありがたいことに行政のサービスが行き届いていて、あたたかい配食に、見守り、お掃除など細やかにやっていただきなんとか暮らしていけている。無理に施設に入れる必要はないのではないかと思うようになった。オットも同じ考えだ。

『死ぬ間際まで自分らしく』が口癖のさなえさんの言う通り、もうしばらくこの家で過ごしてもらってもいい気になっている。側から見たらこんな高齢者をひとりで置いておくのは虐待レベルだと思われないかとヒヤヒヤするが一度会ったら誰も彼女を説得することが出来ないことがわかるはずだ。

オット曰く、『毎日だれかが来る訳だから、そこで亡くなったとしても孤独死ということにはならんやろ…」と何回か試みた施設に入れることを諦めてしまったようだ。

ケアマネもさなえさんの思いを尊重しましょうと日々の要求に振り回されながらもがんばってくれる。こんなにケアプランを組み直させられるのもきっと初めてだろう。  

10人以上の家族のご飯を煮炊きし、放課後来る高校生などには軽食を食べさせたり、部屋の管理など、とても忙しかったらようだ。生徒のピアノが流れてくる教室と大家族が暮らしたこの家がすべてで、ここ以外の住処はないのかもしれない。

ここ一年、完全には元気とは言えないがあらゆる行政支援を利用させていただき生きている。毎日昼と夜の配食サービス、(これは見守りも兼ねていて、かならず本人の安否確認をしなければならない)、週2回のデイサービス、週2回のヘルパーさんが家に来てくれお掃除や常備菜を作ってくれる。ほんとにありがたいこと。おかげで離れていても安心していられる。

どれが正解かわからないけど、結局はなさなえさんがギリギリ立てる間は意思にそってあげたいなと思う。

今日もまた施設に入らない戦略を練っていることだろう。

誰も永遠にさなえさんには勝てない。でもやっと最近少しだけフワフワとしてきたさなえさんと対等に話せるようになってきた気がする。

見守るしかない。がんばろ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?