アイルランドの劇作家たち Vol.2 ジョージ・バーナード・ショー
これはおたくが推しについて書いている推しの応援記事です。
初めましての方、アイルランド演劇初心者の方はVol.0をみてもらえると。
George Bernard Shaw(1856-1950)
ノーベル文学賞受賞者で、英文学、英国演劇の世界だとかなり重要な人のようだが、例に漏れず日本での一般認知度はあまりない。個人的にはイプセンとかチェーホフとかは分かる演劇人がバーナード・ショーを知らんのか、と思ってしまうこともあるけれど、現実問題ショーの作品を日本で上演している情報はほぼほぼないので、仕方がないのかもしれない。ちなみにショーはイプセンにめちゃくちゃ影響を受けていて、1891年に『イプセン主義の真髄』なる熱狂的オタク感満載の本まで書いている。(残念ながらこれは日本語訳は出てなさそう)
ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の原作となった戯曲『ピグマリオン』を書いた人だと説明すると、それなりにああ〜とかへえ〜とかいう反応はもらえる。他の作家だと代表作とか言っても??という反応になりがちだから、まだ知名度はある方かな。その秀逸な戯曲で1925年にノーベル文学賞を受賞。
演劇企画CaL第二回企画はこの人の作品を上演予定です。5月29日〜31日にやる予定でしたが、延期となりました。詳細は決まり次第お知らせします。→追記、2021年7月3日〜4日に上演します!詳細はこちら
レーダーチャートで現地人気を4にしたのにはちゃんと訳があるので説明しておくと、わたしの感覚では、同じロンドンで活躍したアイルランド出身の劇作家、だとオスカー・ワイルド(彼についても後日書きます)の方が「好き!!」っていう人が多い気がする。根拠はない。また、アイルランドにはVol.1に書いたシングをはじめ、もっと地元の人たちにとっては愛の深い作家が多いので、そういう人たちに5をとっておいているのだ。
ショーの戯曲について
ショーの戯曲は、目立って派手な仕掛けはないけれど、言葉のやりとりで物語が進んでいく会話劇の真骨頂。とにかく台詞の展開が巧み。背景としてはイプセンの影響をもろに受けて、現実主義で社会諷刺的。とりわけ哲学的なテーマをユーモラスに、笑いに昇華して書いていて、いわゆる「名台詞」がごろごろある。かつて『人と超人』という戯曲内での神と悪についてのシーンが、あまりに冗談がすぎるとロシアの大作家トルストイに非難されたものの、いかなるテーマであれ「ユーモアと笑い」は必要不可欠だと反論したエピソードもある。
あとオマージュというか、他の名作を受けた作品がけっこう多い。ショーはシェイクスピアも大好きで、『ジュリアス・シーザー』に対して『シーザーとクレオパトラ』を書いたりやシェイクスピアが登場しちゃう『ソネットの黒婦人』などを書いた。またイプセンの『人形の家』に触発されて『カンディダ』を書いたり、チェーホフの『桜の園』を受けて『傷心の家 -Heartbreak House』を書いたりもしている。
もう一つ特徴的なのは、ショーの作品に出てくる女性たちは「自立して生きる強い女性」という描かれ方をしていることだ。「女性は家庭で」という文化がまだ根強かった頃に、自ら積極的に行動する、強く生きる女性っていうのを多く描いた。これは後述のように、幼少期から母や姉に支えられていた、というのが大きいと言われている。それから妻のシャーロットも女性の権利を訴える政治活動家で、彼女の存在もショーの女性観に大きな影響を与えているはず。
ショーは演劇を「現実社会の本当の絵」であるべきだと考えていて、客の趣味に合わせて快楽をお届けするような芝居を嫌っていた。有名なのは先述の『ピグマリオン』という戯曲についてのエピソードで、『マイ・フェア・レディ』をご存知の方は分かると思うが、花売娘イライザと言語学者ヒギンズ教授はくっつきそうなエンディングが一般的に知られているけれど、もともとのショーの戯曲では二人は恋愛関係へ発展しそうな匂わせすらない。ショーはこの二人は絶対に恋愛関係にならないとけっこう長々としっかり説明した後追い声明みたいなものまで出している。舞台初演時にヒギンズ役の役者がアドリブでイライザの手にキスをしたのにたいそう怒ったし、『ピグマリオン』の映画化の際も設定を勝手にいじられたくなくて自ら脚本監修にあたったのに、本人に内緒でラストシーンが二人のロマンスを勝手にほのめかしていて相当キレたらしい。
とはいえ映画『ピグマリオン』がヒットしたのはその改変されたエンディングのおかげだし、ミュージカル『マイ・フェア・レディ』が広く人気なのもロマンスがあるからなもので、ちょっと思うところはあるよね。
ショーの人生
ジョージ・バーナード・ショーはアイルランド、ダブリン生まれ。父は紳士階級の生まれながら酒に溺れたダメ親父だったようで、生活はもっぱら音楽家だった母が教師をして支えていたらしい。
ショーが生まれたのはアイルランドはイギリスの支配下にあってずいぶん長かった時代。ショーの家系はもともとイギリスからやってきた支配階級の家柄で、そういう人たちはアイルランドの地元の人たちにとって、ほとんど存在そのものが嫌われ者だった。20歳の時、地元に一人残る父をおいて、先にロンドンへ移住していた母と姉のもとへ合流、その後生涯のほとんどはロンドンで過ごした。
イギリス人にとってアイルランド人は「田舎者」で、「所詮はアイルランド人」という偏見は強かったようで、アイルランドにいてもイギリスにいても「よそ者」だったショーが、自らを「カリスマ作家」というキャラに描き上げたのは不自然ではないと思える。ショーに限らず、Vol.1のシングもそうだが、20世紀アイルランドが独立するまでに活躍した劇作家たちは、そういう社会のマイノリティにいた「よそ者」が多かった。同じことをVol.1にも書いた気がする。
ショーは多筆な名劇作家でありながら、「ジョージ・バーナード・ショー」を演じ続けた人だった。そもそもショーといえばサンタみたいなフッサフサの髭がアイコニックなのだが、まず一度見たら絶対強烈な印象に残るこの外見からして自己プロデュースが光る。頭のと同じ画像をもう一度。写真は白髪だが、ずっと前の若い頃からその髭面は変わらない。顔が分からなくても髭で認識できる。
YouTubeなんかですぐ見れるどのショーの動画やインタビューを見ても、常に自分を演じているように見える。ショーほどの劇作家なら、自らの人生という壮大なスケールの物語も書けたんだろうな。ちょっとこれを見てください。
このひょうきんな感じ。キャラが仕上がってる。わざとらしい登場の仕方からの「おっと、やあ、驚いたな」。コントかよ。
ショーの人生を追ったドキュメンタリー "Astonishing Myself(驚異のこの私)"という番組があって、その中でプレゼンテーターが引用していたショーの言葉が衝撃だった。『ギリシャにはアリストテレス、イタリアにはレオナルド・ダ・ヴィンチ、イングランドにはシェイクスピア、そしてアイルランドには驚異のこの私がいる』と言ったらしい。どこで言ったのかは分からないのだけれど、そのレベルの天才と並ぶ自信は相当なもんだし、実際みんな異論はないだろう、ちゃんと説得力がある。わたしは『日本にはこの私が』とか口が裂けても言えないなあ。
彼はかなり長生きしたので人生を語るだけでけっこう長くなってしまうのだが、他の破天荒な作家たちに比べるとショーは真面目な方というか、あまり他人に迷惑かけて生きたイメージがないというか、誤解を恐れずに言うと「普通に人間っぽい」というか。生きてる間からそれなりに名実ともに高い評価をされていた人だという印象。
劇作家として以外にも有名なのが、ショーはベジタリアンだったこと。そしていたって健康に長生きした。近年で社会現象にもなるずっとずっと前にベジタリアンを公言してて、しっかり94年も生きた。ショーが亡くなったのは1950年なのだが、この時期だと長寿大国日本ですら90超えは珍しかったはずなので、相当すごい。しかも死んだ原因も病気ではなく、庭でこけて骨を折って手術したら後遺症が悪化して、ということなので、こけなかったら、もしくは手術が成功していたら、奇跡の100歳超えをしていたかもしれないのだ。
ショーが過激な人だというイメージを持たれることもあるのだが、それは彼が「社会主義者でムッソリーニ(ファシズム)に賛同していた」からである。ただこれはちょっととりようが違うとわたしは思っていて、ショーはあくまで「資本主義に反対」だったということじゃないかと。別に権力とか戦争とか暴力とかを肯定したわけじゃないし、そういうものにはむしろ批判的だったようだ。まあここら辺はセンシティブな話題なのであまり語ると墓穴堀りそうでやめときます。
ショーは祖国アイルランドを出てから実に70年以上もイギリスで暮らしてるし、書いた芝居も基本イギリスが舞台だしで、「アイルランドの作家」という扱いをされないときもしばしばあるのだが、ショーに「アイルランド」の枕詞は切り離すことはできないとわたしは思う。そのひょうきんなキャラクターも「アイルランド人」のイメージからだし、ユーモア溢れる台詞の数々も、ユーモア溢れるアイルランド人だからこそ書けたものだと思う。それから90年以上のその人生の長さを考えるとアイルランドで暮らした20年なんてちっぽけだけど、ショーはそれでも生涯アイルランド訛りの英語を話し続けたのも。先に載せた動画での話し方からもアイルランド訛りを感じられる。
個人的に、アイルランド訛りの英語って日本語でいう関西弁みたいな位置付けだなと思っていて。その存在感とか、アイコニックな感じとか、アイデンティティの代名詞みたいなところとか。実際、東京で暮らす関西人が関西弁抜けないのと同じように、イギリスやアメリカへ渡ったアイルランド人もアイルランド訛りが抜けない人が多い。最近だと元1Dのナイル・ホーランとか典型的だと思ってる。まだ若いけど。
言葉を扱う仕事をする人が、その代表作で言語学者を主人公に英語の発音矯正について描いた作家が、母国の訛りで90年以上話し続けるっていうのは、絶対大きな意味があったはず。なんて、ファンの妄想かしら。
ショーの戯曲作品
ショーは1892年、36歳の時に『やもめの家 -The Widower's House』で劇作家デビューして以来、その長い人生で実に60作もの戯曲を書いた。とても全部は紹介しきれないので有名どころで、日本語でも読めるものをいくつか。改めて言うが、ショーの戯曲の最大の魅力は台詞の面白さ。ノーベル賞までとってる人だけど、全っ然お堅くないよ。
(初演年)
・ピグマリオン -Pygmalion (1913)
すでに何度も言及したショーの代表作。五幕構成の喜劇。知らない方のためにあらすじを。
英語の方言に詳しすぎる音声学者のヒギンズ教授。いわく、その喋り方から六マイルとくるわない生まれた場所をあてられる、ロンドン市内なら二町とはずれないらしい。彼は喋り方の矯正を仕事にしていて、ある日街で出会ったひどく汚いコックニー訛りの喋り方の花売り娘イライザを、お仲間のピッカリング大佐との道楽で「六ヶ月で公爵夫人にしたてる」という賭けをする。血も涙もない特訓を経てイライザは貴婦人へと変身するのだが、イライザは自分に対してあまりに不誠実なヒギンズの態度に不満を募らせていて…
英語芝居としては大傑作なので、英語がお好きな方で知らないという人は是非映画でも観てみてほしい。言葉の変化とか感じながら観賞するのはかなり楽しいと思う。
英語が分からないという方も、翻訳で十分そのウィットな台詞の応酬は楽しめるし、先に書いたヒギンズとイライザの関係について、はたしてロマンスが発生するのかしないのか、あなたはどう思う?なんて考えながら観るっていうのもなかなか楽しそうなんだけどどうだろう。
ヒギンズは、たしかに言語学者としては優秀なんだけど、人間的には傲慢で自己中でマジクソ男(おっと失敬)だと思っている。ちょいと有名なひどいシーンを紹介しますね。分かる人は分かる、「スリッパのシーン」の後です。「スリッパのシーン」ってのは、貴婦人になったイライザが大使館パーティーに出たところその素性を噂され、ハンガリーの王女様だとかヴィクトリア女王のようだとか言われたためヒギンズはすっかり鼻高になり、自分を労いもせず変わらず傲慢な態度なのにムカついたイライザがヒギンズのスリッパをぶん投げるシーンのこと。
イライザ (略)あたしに何ができるの?何ができるように、あたしにしてくださったの?あたしは、どこへ行けばいいの?何をすればいいの?あたしはどうなるの?
ヒギンズ (事の意味がようやくわかったが、少しも心を動かされず)ああ、それが心配のたねなんだね?(ポケットに手をいれ、例によってポケットの中味をガチャつかせながら歩きまわり、ほんの親切心からつまらん相談にものってやっているんだといわんばかりに)ぼくだったら、そんなこと、くよくよしないな。きみの身のふりかたをつけるぐらい、たいしてむずかしいことじゃないと思うがねーーもっとも、きみがここを出てゆく気でいるとは知らなかったが。(彼女はチラッと彼を見る。彼は彼女のほうを見むきもしないで、ピアノの上の果物皿を調べて、リンゴを食べようと決心する)なんなら、結婚したっていい。ねえ、イライザ、世の中の男がみんな、ぼくや大佐のように、こちこちの独身主義者とはかぎらんよ。たいていの男は結婚したがっているんだ。(あわれな奴らだ!)それにきみは、器量もわるくない。見て楽しくなることもあるからなーーもっとも、今はだめだ、そんなに泣いたりわめいたりして鬼瓦みたいな顔をしたときは。そうではなく、ちゃんとした君本来の姿でいるときは、まあ魅力的といっていいくらいだよ。もちろん、結婚したがっている連中にとってはだよ、わかるね。さあ、いって、よくおやすみ。そして朝、目がさめたら、鏡をみてごらん、まんざら捨てたもんでもないと思うよ。
イライザは無言のまま、ふたたび彼を見る。が、べつに動じた様子はない。彼女が見つめても、彼には手答えがない。リンゴがとてもうまいので、世にも幸福そうな夢みる表情で食っている。 〈倉橋健訳〉
コイツ…!ってなる。リンゴが余計ムカつく。ちなみに「結婚してもいい」というのは、日本語だと曖昧なんだけど、文脈的に「自分と結婚してもいい」ではなくて、「そこらへんの男と勝手に結婚してもいい」の意。主役の男女がくっつかない、というプロットを成立させるためにここまでひどい男にしてんのかなとも思ったり。
あんまりいろいろ突っ込まれたくないから深くは掘り下げないけれど、ショーの戯曲というのはフェミニズムの魁なのかなあとちょっと思うことも。「家庭に入ることがだけが女性の生き方で幸せ、とはかぎらない。女性が自らの意思を持って人生の選択をして、自立して生きたっていいじゃないか」みたいなのを感じるものが多々ある。
間違ったイメージは持ってほしくないので言っておくと、構図としてはイライザはヒギンズにひどい扱いを受けるのだけど、イライザは強い女性で、振り回されてつらくなるも、ヒギンズに一泡吹かせてやるぞってな姿勢でいる。そういうとこがイライザの魅力的なところだと思う。
もうひとつのこの作品のミソは、階級社会で、善意で中流階級の仲間入りをさせられた貧乏人は幸せになれるわけではない、ということかな。物語の中で、イライザの父親も人生を狂わされる。人には人の居心地のいいところとか、いるべきところとか、それぞれちゃんとあって、勝手な価値観の押し売りはよくないし、貧乏人に中途半端に贅沢を与えるのは本人のためにならないのではないか、ってな話。
小田島恒志の新訳の方だけど文庫で出てるので。
・人と超人 -Man and Superman (1905)
四幕構成の喜劇。モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』をモチーフにしたと言われている。端的に言うと三角関係を含んだラブコメなのだが、かなり長い(ノーカットで上演すると5時間近くかかると思われる)ので、最初に読むのは正直あまりおすすめできない。ぶっちゃけこれはわたしもまだあまりピンと来てはない。しかし傑作なのには違いないし、今後いつかご覧になる機会があったら見逃してほしくないしあわよくば読んでみてくれたら嬉しいので紹介しておく。
テーマが「宇宙的」とか「生の力(本能)」とかいう哲学的なもので、有名な第三幕のタナーがドン・ファン(スペインの伝説上のキャラでプレイボーイの象徴)の地獄に落ちる夢を見るシーンも含め、けっこう壮大な構造のイメージがあるが、軸としては機知に富んだ女性が男を落とす策略的な男女関係を描いたもので、そこに「地獄の夢」を見たり自己のプライドとの葛藤があってただ幸せになるだけじゃなかったりという側面があるのがただのラブコメで終わらないところである。
まあとりあえずあらすじを。
アン・ホワイトフィールドの父が亡くなり、その旧友ローバック・ラムズデンの元へオクテイヴィアス・ロビンソン(通称テイヴィー)が訪ねてくるところから物語は始まる。オクテイヴィアスはアンとは家族ぐるみで親しく、アンにベタ惚れな詩人。そこにアン、オクテイヴィアスと旧知の友人ジョン・タナー(通称ジャック)もやってくる。タナーは革命思想家で、自由気ままで、結婚なんて勘弁だと思ってる。アンはオクテイヴィアスに好かれていることを逆手にとって、タナーを狙っている。やがてそのことに気付いたタナーは動揺し、逃避行に出る。そこでドン・ファンの夢を見て…。
タナーは簡単にいってしまうとひねくれ者というか、めんどくさいというか。自らの哲学でものを語りがち。たとえばこんな感じ。
オクテイヴィアス ものを書くにはインスピレージョンが要るよ。僕にそれをくれるのはアンだけだ。
タナー ふん、それなら安全な距離をおいてそいつをもらった方がよくはないかね?ペトラルカはラウラに、ダンテはベアトリーチェに、君がこの頃アンに逢うほど逢ってはいなかったね、にもかかわらず彼らは一流の詩を書いたーーといわれてる。少なくとも、大詩人は崇拝するものを家庭に持ち込んで眺めようなどとは思わなかった、だから崇拝の念は死ぬまで変わらないあったんだ。アンと結婚してみろ、一週間もたてば、インスピレーションの源も皿に盛ったマフィン同然になるよ。
オクテイヴィアス 君は僕があの人に飽きると思うのか!
タナー とんでもない、君はマフィンに飽きることはない。ただそいつはインスピレーションの源にはならないんだ。あの子だってそうさ、詩人の夢から体重百五十ポンドなにがしのただの女房になってしまえばね。そうなれば君の夢の相手は他の誰かになるほかない、そこで家庭争議というわけだ。
オクテイヴィアス こんなことをいってたって無駄だよ。君にはわからない。君は恋をしたことがないんだ。
タナー 僕が!僕はね、ずうっと恋のしどおしさ。そう、アンにまで恋してるほどだ。だが僕は恋の奴隷でも恋するふぬけでもない。蜜蜂を見に行くんだね、君のような詩人は。よく観察して知恵をつけろ。いいかい、テイヴィー、男が働かなくて女がやって行けるものなら、また男が子供のパンを作らずにそれを食ってしまうものなら、女は男を殺すんだ、ちょうど、雌蜘蛛が雄蜘蛛を、女王蜂が雄蜂を殺すようにね。そしてまさにそうであるべきなのさ、男が恋するほかに能のないものならね。 〈喜志哲雄訳〉
テイストとしては全体的に、こういう哲学的なジョン・タナーの長台詞が星の数ほどある。まあ、タナーもいざ当事者になったらこんなこと言ってらんなくなるんだけどね。自分がアンにロックオンされていると気付いた瞬間の動転っぷりは笑える。
あとは第三幕の夢の場はやはり最大の見所で、ドン・ファンや悪魔らが、神についてとか悪についてとかそういう議論を交わす。ここ、台詞の長回しもえげつなくて、二段構えの戯曲で見開き一ページ超の長台詞とかある。上演するとなるとかなりえぐいな。
こちらも文庫で出てるのは別で、市川又彦訳(古い)。先のピグマリオン含め引用したバージョンはカンディダの項に貼った戯曲集から。
・シーザーとクレオパトラ -Caesar and Cleopatra (1901)
五幕構成で、ジュリアス・シーザーがエジプトに上陸してクレオパトラと出会う、歴史に基づいた話。歴史に関してはそこまで詳しいわけじゃないので深く語れないというのが正直なところなんだけど、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』をかなり意識して書かれていて、文庫の表紙にあるように「シェークスピアのシーザーは、本当のシーザーの不条理への変形であるが、わたしのシーザーは、自然と歴史への復帰である」と述べている(シェイクスピアに関しても私そんなになものでして、比較とかあまりできない、ごめんなさい)。
シーザーとクレオパトラという歴史上の超有名な二人のキャラクターについて、ショーはシーザーは喜劇役者的な存在に、クレオパトラは経験豊富だが子供らしさを併せ持った性格に描いた。あらすじを語るのは野暮な気もするが、一応。
紀元前48年、ライバルのポムペー(ポムペイウス)を追ってエジプトへやってきたシーザーは、ある夜砂漠のスフィンクスの前で、宮殿を抜けてきた少女クレオパトラと出会う。当時クレオパトラは弟のトレミー(プトレマイオス十二世)と、どちらが玉座に座るかで争っていた。クレオパトラは女王になるために、エジプトでも恐れられていたシーザーに取り入る。しかしやがてトレミーを王に据えたい一派と戦になり…
基本的には歴史に沿ってる(はず)なのでちょいと検索すれば話の流れはすぐにいろいろ出てくる。作品に関しては、深くは語らずいくつかのシーンを紹介するにとどめるのがいいかなと思うので、まずは冒頭のシーザーとクレオパトラの出会いの場面を。砂漠のスフィンクスの前での初対面で、なかなかかわいらしい。
少女 こっちへ上っていらっしゃい、早くね。でないとローマ人が来て、あんたを食べてしまうわよ。
(中略)
シーザー (おどろいて)あなたは誰だ?
少女 エジプトの女王クレオパトラよ。(中略)気を付けてね。まあよかった。お座りなさいな、そっちの前足がいいと思うわ。(彼女は気持ちよさそうに左の前足の上にすわる)。スフィンクスは強いから、私たちを護ってくれるわ。でも(身ぶるいし、悲しく寂しそうに)私のことなんか構いつけてくれないし、仲間にはしてくれないの。あんたが来てくれて、ほんとによかった。私さびしかったわ。あんた、私の白猫を、どこかで見かけなかった?
シーザー (すっかり驚嘆して、しずかに右の前足に腰をおろしながら)それをあなたは見失ったのかね?
クレオパトラ ええ、神聖な白猫を。大変でしょう?私はスフィンクスにお供えしようと思って、ここへ抱いてきたんだけれど、町からすこしばかり離れたところで、黒猫があれをよんだのよ。
(中略)
シーザー ところであなたは、何故うちの寝床の中にいないのかね?
クレオパトラ だってローマ人がやって来て、みんなを食べてしまうんですもの。あなただってうちの寝床の中にいないじゃなくって?
シーザー (自信を以て)いや私はいるさ。テントのうちに暮らしているんだもの。私はいまテントの中にいて、眠りながら夢を見ているのだ。あなたが生ま身の人間だと、私が信じてるとでも思ってるのかね、聞き譚のない可愛い夢の中の魔女よ?
クレオパトラ (クスクス笑いをして、安心して彼の方にのりだして)あんたは面白いおじさんね。あんた好きだわ。
シーザー そんなことをいうと夢が破れる。ついでに私が若いという夢を見てくれないかね?
クレオパトラ 若いといいのにねえ。
クレオパトラ、かわいいでしょ。この作品のクレオパトラはずっとこういう、気高くも快活な少女感があって、かわいいんだ。
お次はかの有名すぎる、クレオパトラが戦地のシーザーになんとかして会いたくて絨毯にくるまって届けられる場面。第三幕の中盤にある。舞台は戦の真っ只中なのだけど、なんだかコミカルでユーモアを感じる。ちなみにクレオパトラはまだ出て来ないので、絨毯の中にクレオパトラがくるまっているのをご想像しつつどうぞ。
シーザー ようこそ、アポロドラス。用事というのは何かね?
アポロドラス まず第一は、女王の中の女王様からのお土産を、あなたにお渡しすることです。
シーザー というのは誰かね?
アポロドラス エジプトのクレオパトラ。
シーザー (最も愛想のいい様子で、砕けた口調になって)アポロドラス、今はね、お土産なんかをいじくりまわしている暇はないんだよ。頼むから、女王のところへ戻って行って、都合がつけば、今夜宮殿へ帰ると言ってくれたまえ。
アポロドラス シーザー、私は戻るわけに行きません。私が燈台へ近づいた時、どこかの馬鹿者が海の中へ革袋を投げ込んだのです。それが私のボートの舳をこわしてしまったんですよ。
(中略)
シーザー お土産というのは何かね、アポロドラス?
アポロドラス シーザー、ペルシャ絨毯ですよーー目もさめるような!そしてその中にはーー私はまた聞きですがねーー鳩の卵、水晶の杯、それからこわれやすい貴重品がはいっています。私は、自分の首にかけても、あの狭い梯子を伝って、土手道から担ぎあげる勇気はありませんね。
ルフィオ それじゃクレーンでひっぱりあげるがよかろう。卵は料理人に渡して、われわれは杯で葡萄酒をのむ。絨毯はシーザーのベッドに使ったらよかろうぜ。
アポロドラス クレーンだと!シーザー、私はこの絨毯の荷物を、命がけで、お預りすると誓ったのです。
シーザー (快活に)それじゃ君の命も一緒に、ひっぱり上げてもらったらよかろう。万が一、鎖がきれたら、鳩の卵と心中するんだ。(彼は鎖のところに行って、上まで見あげ、綿密に検査する)。
アポロドラス (ブリタナスに)シーザーは真面目で言ってるのかね?
ブリタナス あの人はイタリア人だから、態度は軽はずみだがね、言ってることは本気だよ。 〈山本修二訳〉
この訳本は70年くらい前ので旧字体の漢字が多い(上記引用ではわたしが勝手にアップデートしてます)のが難だけど、翻訳としてはかなり読みやすいと思うし、古い歴史モノだけどショーお得意のユーモアが溢れていて全然堅苦しくない。
・カンディダ -Candida (1897)
三幕構成の喜劇。わたしの手元にある戯曲集では「ミステリー」って書かれてるんだけど、謎。別に殺しとか起きないし。
初期の代表作になるのだけど、これはなかなか面白くって、わたしはかなり好き。これこそ「何も起こらないけど会話で魅せる演劇」だなと思える。軽快かつころころと話が転がって、6人という少なめの登場人物たちの人間関係がちゃんと(リアルに)絡み合い、台詞はなかなか本心を言わない。「この人は本当はどう思ってるのか」っていう言葉の裏側を想像しながら、ときにちょっと意表をつかされたり、おっとそう来るか!なんてことがあったりして楽しい。
あらすじをいうのが難しいんだけど、とりあえず。
有名な牧師であるジェームズ・メーヴァ・モレルには愛してやまない妻カンディダがいる。カンディダはしばらく子供たちと旅行にでかけていたのだが、一時的にユージン・マーチバンクスという詩人の少年と一緒に帰ってくる。ユージンはもともとお坊ちゃんなのだが、ひょんなことからモレルに拾われて、一家と一緒に暮らしていた。このユージンがモレルに対して自分はカンディダのことが好きで、モレルの縛りつけからカンディダを助けたいと啖呵を切って告白する。やがてカンディダを挟んで攻防は加速する。
これが傑作なのは、構図的には不倫の泥沼になりかねないものを、ずっとコメディの温度感が保たれているということ。モレルは動揺しつつも、相手が子供だからか激しく取り乱すこともなく牧師として「説教」をたれ続けるし、ユージンはユージンで若さといいとこ育ちの余裕と詩人ならではの飄々とした感じでモレルにつっかかり続ける。そこにカンディダのなんとも取れそうな振る舞いと、カンディダの父でお金大好きなちょっとだらしない商売人バーゲス(このキャラがほんとよくて、シリアスに落ちそうなところでぐいっとコメディに戻してくれる)、それからモレルの信者で部下の男アレクサンダー・ミル(通称レクシー)と、モレルの秘書的なタイピストの女の子プロサパイン・ガーネット(通称プロシー)が絡んでくる。
ちょっと面白いので長めにワンシーン抜粋。
モレル (略)もうすぐカンディダが話し相手に来てくれるよ。生徒は帰ったし、今はランプの油さしだ。
マーチバンクス (気も狂わんばかりにびっくり仰天して、とび上がり)いけない、手がよごれます。油さしなんてそりゃひどい。あんまりだ。僕が行って代わりにやって来ます。(戸口に向かう)
モレル よしたほうがいいな。(マーチバンクスはためらって立ち止まる)君が行けば、どうせ私の靴をみがかされるだけだよ。あすの朝の私の手間が省けるようにってね。
バーゲス (聞き捨てならないと)女中を使っちゃいないのかい?
モレル いますが、女中は奴隷じゃないもんでして。まあ見方によれば、このうちには召使が三人いるといってもいい。つまりめいめいお互いに助け合うわけです。なかなかうまい仕組みですよ、これは。プロシーと私は、朝ご飯がすむと、皿洗いをしながら仕事の打ち合わせができるし、皿洗いだって二人でやれば簡単だし。
マーチバンクス (身もだえして)女ってみんなガーネットさんのように、がさつなんでしょうか?
バーゲス (声を強めて)そのとおり、まさにそのとおり。まったくがさつだな、あいつは。
モレル (おだやかだが意味ありげに)マーチバンクス君!
マーチバンクス は?
モレル 君のおとうさんは召使をなん人使ってる?
マーチバンクス (不機嫌に)さあ、知りません。(モレルの次の質問からなるべく遠ざかろうとするかのように、ソファへ行き、ランプの石油のことを考えてひどく苦悶しながら腰をかける)
モレル (きわめて重々しく)あんまり大勢で知らないんだな!(さらに攻めたてて) とにかく、何かがさつな用事が起こると、君はベルを鳴らしてだれかに押しつけてしまうんだろう、え?
マーチバンクス からまないでくださいよ。そういうあなたはベルだって鳴らしもしないくせに。ごらんなさい、奥さんの美しい指先がいま油の中でジャボジャボじゃぼついてるっていうこのときに、あなたはのんびり腰を構えてビチャクチャおしゃべりだ。あけてもくれても口先だけのお念仏、言葉に言葉に言葉!
バーゲス (このしっぺ返しに大喜びをして)ハー、ハーッ!こいつは大傑作!(晴れやかに)どうだ、まいったろう、ジェームズ、きれいに一本!
〈鳴海四郎訳〉
この作品は当時から相当人気だったようで、熱狂的なファンを生み "Candidamania" なる社会現象が起きていたほどらしい。「ねえカンディダ観た?」なんて会話が町のあちこちでされていたとか。
ちなみにこれ、イプセンの『人形の家』に触発されて書いたらしいけど、『人形の家』っぽさといえば既婚の女性が新しい世界を夢見ているという構図くらいしか重ならない気がする。あくまでインスピレーションを得ただけじゃないかな。
日本語訳は全六編の作品が入ったこちらの戯曲集に。
各作品は原文のKindle版(Amazonリンク)やeBooks(フリーテキストリンク)もたくさんあるので、ご興味あれば是非。英語戯曲としてはショーはわりと読みやすいほうだと思う。
ショーの戯曲作品(短編)
英語で長編はハードル高いという方に、短編も軽く紹介しておこう。
・How He Lied to Her Husband (1905)
タイトルだけ見て一瞬??となるだろうが、登場人物を説明すれば分かる。
Her Lover, Her Husband, Herself の三人。つまり不倫もの。しかしショーあるある、基本恋愛話をもちこまずに会話で楽しませるタイプなのでぜんぜんあっさりしてる。上演するとしたら30分弱くらいかな。あらすじはこんな感じ。
Her=彼女は、He=Her Lover=愛人からもらった熱烈な恋文をどこかに落としてしまって慌てている。その恋文は、書いた男のことはぱっと見分からないが、女の名前(=Aurora)が珍しい名前でロンドンにただ一人しかいないので、絶対に彼女のことだと気づかれてしまうのだ。案の定、Her Husband=彼女の夫が恋文を手に二人のもとへやってきて、真意をさぐってくる。
・The Dark Lady of the Sonnets (1910)
先述の通り、シェイクスピアがキャラとして登場するもの。これはそもそもシェイクスピアの没後300年記念(1916)としてシェイクスピア・ナショナル・シアターがつくられようとしていて、そのキャンペーンの一貫として書かれたもの。シェイクスピアのソネットに登場するDark Ladyをモチーフにしていて、シェイクスピアと、エリザベス一世が登場する。あらすじとしてはこんな感じ。
16世紀、テムズ川を臨める宮殿のテラス。黒婦人とこっそり待ち合わせをしていた男=シェイクスピア。ところがそこに現れたのは別の婦人。ついつい彼女をくどいてしまったところに、本物の黒婦人が来てしまい、修羅場となりかける。しかし先に出会った婦人は実はエリザベス女王だった!
・Overruled (1912)
これはコントと言っても怒られないと思う、二組の不倫カップルがホテルで遭遇したところ互いの伴侶だった、というドタバタ劇。これに関してはぶっちゃけこの設定だけで十分みたいなとこあるのだけど、一応あらすじ。
海辺のホテルのラウンジでMrs JunoとGregory Lunnがいちゃいちゃしている。ところが衝撃の事実が発覚、GregoryはMrs Junoの旦那は亡くなっていると思い込んでいたのだが本当はしっかり生きていた。またMrs JunoはGregoryに妻がいることを知る。そこにMrs Junoの旦那JunoとGregoryの妻Mrs Lunnが仲睦まじい様子で現れる。慌てて隠れたMrs JunoとGregoryは二人の逢瀬に出くわしてしまう。しばらく隠れていたものの耐えきれなくなったGregoryがつい二人の前に飛び出して…
ショー作品の映画
演劇は上演の映像がなかなか観れないというのがネックになることが多いのだけど、ショーの作品は映画化されたものもいくつかある。作品世界の雰囲気を覗くのに、もしよかったら。
『ピグマリオン(1938)』
日本語字幕つきのもの、調べたらdTVで配信してるっぽい。もしくはDVDレンタル。英語OKならもっとネットで見る選択肢多い。
『シーザーとクレオパトラ(1945)』
ピグマリオン同様ショー自らが脚本を担当。クレオパトラ役のヴィヴィアン・リーは、どうしてもこの役がやりたくてショーのもとを訪ねるまでして認められたらしい。レンタルは見つけられなかったのでとりあえずDVD。
『聖女ジャンヌ・ダーク(1957)』
『聖女ジョウン(1923)』を原作とした映画。日本版で配信やDVDはなさそうなので、とりあえず情報だけ。英語のだったらネットのどこかにありそう。
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