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アイルランドの劇作家たち Vol.4 【後編・戯曲編】 ウィリアム・バトラー・イェイツ

これはおたくが推しについて書いている推しの応援記事です。
初めましての方、アイルランド演劇初心者の方はVol.0をみてもらえると。


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William Butler Yeats (1865-1939)

これは後編です。前編はこちら。

前編からだいぶ日が開いてしまいましてすみません。


この記事では演劇作品に関することのみ触れており、前編を読まなくても大丈夫ではありますが、前編をお読みになってからの方がより深まるかと思います。

イェイツの戯曲

前編にて触れたように、彼の戯曲は基本的に国立劇場、アビー・シアターでの上演のために、アビーにおける「アイルランド国民演劇を確立する」という信念のもとつくられていた。もともと詩人であったので、ただでさえ詩的なアイルランドの作家たちの中でも、群をぬいてうつくしい詩的な戯曲を書いた。というかそもそもイェイツは古よりの詩劇に影響を受けており、演劇の近代化が進んだ当時に、「詩を舞台上に復活させたい」というのが活動の根源だったみたいだ。

イェイツの演劇に対する考え方として「舞台装置より演技を、演技より戯曲を」という「サウィン精神」なるものが有名で、つまりは戯曲が一番大切で、このために演技の静止や単純化、舞台装置の簡素化をというのが基本方針だった。このスタンスは、程度の差はあれ現代にも引き継がれているものが多い印象で、アイルランド演劇の特徴のひとつになっている気がする。


イェイツの戯曲は長編が(たぶん)無くて、だいたい短編なのでちょっとした読みにちょうどいい。というか初期のアビー(前身の文学座等々含む)はオムニバス公演が多かったのでそもそもがそういう上演向けに書かれてるのだと思われる。上演時間は10分程度のものから、長くても1時間以内くらいだと思う。

けっこうたくさんあるのでいくつかを選んで紹介しよう。()内は初演年。ちなみにこの年代をみてもらうと、分かりやすく「初期は民話や伝説をもとにした作品、後年は能楽の影響を受けた作品」というふうである。


・キャスリーン伯爵夫人 -The Countess Cathleen(1899)

古代アイルランドを舞台とした、民話に基づいた作品。ジェイムス・ジョイスが少年時代にこの上演を観て、深い影響を受けたそう。『若き芸術家の肖像』の中でスティーブンが死にゆくキャスリーンの最期の言葉を思い返すシーンがある(らしい、わたしはまだ読めていない)。

あらすじはこんな感じ。

農夫のシェーマス・ルアは妻メアリー 、息子タイグと三人暮らし。飢餓の時期で食べ物がなく、人々は貧しさと飢えに苦しんでいる。そんな中この家をキャスリーン伯爵夫人が、それから商人を騙った悪魔が訪れる。商人は人々の魂を高値で買うという。キャスリーンは道中で会った飢えた人々にありったけのお金を渡してしまったので財布は空になってしまい、他の財産を売り尽くして助けようとするも、悪魔に騙され、今だ飢える人々を助けてやれない。そのうちどうにも困った人々が魂を売ると言ってセリがはじまる。人々を救うため、キャスリーンは誰よりも高くつく自らの魂を売ることにする。


一見身をもって人々を救う美しい話かと思いきや、これがあまり良い方に向いているとは思えない。例えば中盤、キャスリーンが有り金全てをシェーマスたちにやって去った後にこんなやりとりがあって、わたしはどきっとしてしまった。

メアリー   あんた奥様にお礼も言わなかったね。
シェーマス  礼だって?半ペニーの銅貨が七枚と銀の留め具にか。
タイグ  でもこの空の財布は?
シェーマス  それがどうした。二倍のお金をくれるとは言ったがな(*キャスリーンが去り際に後日二倍のお金を与えると約束した)、パンから、肉から、食い物という食い物が、今まで聞いたこともない値段がついて、まだ毎日上がってるんだぞ。
              〈佐野哲郎訳〉

キャスリーンが悪魔に魂を売り死にゆくシーンでも、「私どもや子供を地獄へ堕としてでも奥様を免罪して下さいまし」と祈る農婦たちのそばには、「飢餓が終わるまで子供たちを養えるだけくれるだろうか」と先のシェーマスのように現実的な心配をする農婦がいる。実際キャスリーンが死んだ後の描写は、お世辞にも幸せが来そうとは思えない。この感じ、リアルで物悲しくて、やるせないよねえ。


この作品はイェイツが最初に書いた戯曲らしいのだけど、この時からすでに象徴的な舞台にするべきだと言っており、この戯曲の冒頭、設定のト書きはこんな感じ。

暖炉に火の入った部屋。戸外に面した戸があり、そこから森の木が見えるようにするのがよい。その場合、木は、金色もしくは菱形模様に染めた空を背景にして、地味な色に塗ること。壁は一色。舞台は祈祷書の挿絵のような感じを出すこと。

19世紀後半といったら演劇史的には、イプセンが近代演劇を始めて、世界はリアリズムに移行していた真っ盛り。イェイツは正反対の演劇を追究していったわけだ。


・キャスリーン・ニ・フーリハン -Cathleen ni Houlihan(1902)

上演するなら10分少々くらいの短編。タイトルの謎の言語感からわかるようにこれはアイルランド語で、「フーリハンの娘キャスリーン」という意味。

ぶっちゃけこの戯曲、実際はグレゴリー夫人との共作なんだけど、イェイツの活動の原点であった文芸復興運動の中でかなり象徴的な作品であり、「アイルランド」を語る作品としても外せないし、イェイツを語る上でのキーワード「ナショナリズム」にも深く関わるので紹介しちゃう。

以下あらすじ。

1798年アイルランド。農家の夫婦ピーター・ギレーンブリジット・ギレーンの息子マイケルは、ディーリア・キャヘルという権威ある家の娘との結婚を控えている。一家が結婚準備にてんやわんやしている間、十二歳の弟パトリックは見知らぬ老婆が家の方へ向かってきているのを見る。老婆はやがてギレーン家にやってきたが、なにやら不思議な様子で話をする。マイケルは次第にその話に呑まれ、老婆を助けるために結婚式を忘れ一緒に出ていく。


なにやら不思議な様子というのは、まあこんな感じ。

老婆 (前略、歌う)
マイケル  (戸口の場所を離れて近づく)歌っているのは何の歌だい、おばさん。
老婆  昔知り合いだった男の歌さ、ゴールウェイで吊るされた金髪のドナって男さ。

  前よりずっと大声で歌いつづける。(略)

マイケル
  処刑されたのはまたなぜだい。
老婆  私を愛したせいだよ。多くの男が私を愛して死んだのさ。
ピーター  (ブリジットに傍白)悩みで気が狂ったんだ。
マイケル  その歌が作られたのは古いのですか、その人が吊るされたのは昔ですか。
老婆  昔なもんかね、昔じゃないよ。でもずっと昔にも私のために死んだ者は他にもあった。
  (中略)
ブリジット  あの人の気は確かだろうね。もしかしたらよその世界の女かもしれんよ。
             〈風呂本武敏訳〉


この老婆、一見すると幽霊?とか妖怪?とか思うのですが、よくよく話をきくと、たとえば土地を取られたと言うにおいてその土地は「美しい四つの畠だよ」と、どうやら彼女自身が「アイルランド」であると察することができる台詞が続く。四つの畠、というのは、アイルランドは東西南北で四つの地方に分かれているのでそのことである。

また1798年という設定なのだけど、この年には実際にフランスと手を組んだイギリスに対する反乱があって、それは結果的に失敗に終わりイギリスはアイルランドを完全に併合してしまう。だからこの「1798年、訪れた貧しい老婆を助けるために家を出る」という設定自体がかなりナショナリズム色が強い。


こういうわけでこの戯曲は国の擬人化をした作品として有名で、そして「アイルランドを取り戻す」ための演劇運動で象徴的に上演された。国立劇場アビー・シアターの柿落とし公演でも上演されてるしね。

あえて触れませんが、ラストシーンの描写は有名で、なかなか意味深で思うところがある。演出自体はわたしはけっこう好きだけど、意味付けという点では手放しに称賛するわけにはいかないんだよなあ。


・バーリャの浜辺で -On Baile's Strand(1904)

アイルランドの伝説の英雄、クフーリン(Cuchulain)の言い伝えがモチーフとなっている話。クフーリンにまつわるエピソードはたくさんあって、わたしも語れるほどまだ詳しくはないので、とにかくケルト神話に出てくるめちゃ強い伝説の戦士、と認識しておけば大丈夫だろう。


しかしこれがただの伝説をもとにしたお話、ではない大きなポイントが、ストーリーテラーの役割を兼ねている阿呆盲人の二人組の存在。阿呆は目が見えて、盲人は知恵がある。二人は互いに依存しあって生きているわけだが、この二人のおかげでよくできた喜劇になっている。すごく秀逸だと思う。

神話からの登場人物は、クフーリンの他にコノハー大王、それからスコットランドの女王イーファ(かつてクフーリンと親しかった)の息子

以下あらすじ。

海の近くの集会場に阿呆と盲人がやってくる。盲人は、コノハー大王がクフーリンに自分への従順を誓わせようとしているが、しかし同時にクフーリンの殺害を計画している若者がまもなくやってくると話す。そしてクフーリンとコノハー大王、それから若者が現れ、クフーリンと若者は決闘することになる。


オチまで書くかすごい迷ってやめたんだけど、オチが良いのよこれ。物語の軸の部分は神話だけれど、前後に足されている阿呆と盲人の存在がめちゃくちゃ効いていて、神話が「生きた話」になっている。阿呆と盲人は神話と別世界の人ではなくて、クフーリンと話し、対等に生きている。

しかし種明かしをせずに紹介するとなると難しすぎる。ぜひ読んでみてくださいとしか言えない。


ほんのさわりだけでも抜粋してみます。冒頭、阿呆と盲人は盗んできた鶏を食べようとしているところ。

盲人  (略)彼(*クフーリン)は気ままになり過ぎたので、今日コノハーがやって来て誓いを立てさせるのさ、放浪しないこと、飼い犬のよういおとなしくすること、いつもコノハーの身近にいることの誓いをな。(略)
阿呆  コノハーはどんなやり方をするんだろう。
盲人  お前にはそんなことのわかる知恵はないさ。(略)コノハーはこの椅子に坐ってこう言うだろう、「クフーリン、誓いを立てよ。わしの命令だ。言う通りにするのだ。お前の知恵はわしの知恵と比べものにならぬ。お前の富はわしの富とは比べものにならぬ。(略)さあ、誓いを立てるのだ。堅い誓いを立てるのだ。」
阿呆  (身体を縮め、あわれな声で)いやだ。誓いなんか立てるものか。飯がほしいんだ。
盲人  しっ、しっ。まだできちゃいない。
阿呆  頃合い加減だと言ったじゃないか。
盲人  そうだったかな。まあ、できてるかもしれんし、できてないかもしれん。手羽は白くなってるが、足は赤いかもしれん。肉が骨にしっかりくっついて歯では取れないかもしれん。でも、おい、嘘じゃないよ、お前が食べる頃にはちゃんと煮えてるよ。
阿呆  おれは腹ぺこで歯が長く伸びてくみたいだ。
               〈平田康訳〉


もちろん神話がベースなので、展開はその通りなのだけど、ちゃんと知らない人でもわかるようにそれなりに説明や種明かしがあるし、なにより喜劇的な構成なので、ケルト神話なんてゼロ知識って人でもぜんぜん楽しめると思う。


・デアドラ -Deirdre(1906)

Vol.1シングの記事を見ていただいた方は『哀しみのディアドラ』のことを覚えているだろうか。ケルト神話の中のデアドラ(ディアドラ)の話というのは、クフーリンの話と並び特別に有名で人気のあるもので、デアドラがモチーフになっている作品はたくさんあるし、今でもDeirdreというのは女の子の名前として根強い人気がある。

というわけで、せっかくシングのところでも紹介したので、このデアドラの話・イェイツ版というのも紹介しておこう。

まずはシングの『哀しみのディアドラ』の項に書いたあらすじをコピペする。

“ディアドラは生まれた時に「その子は美しい娘になるが、アルスター王国とウシュナの息子たちを破滅させ、自らも小さな墓に入ることになろう」と予言されていた。だがアルスターの大王コナハーはディアドラを引き取り、自らの妃とするために育てていた。やがて美しく成長したディアドラは、老人コナハーとの結婚など望まず、ウシュナの息子・ニーシという若者と恋に落ち、駆け落ちする。しかしやがてディアドラは自らの宿命を受けいれ、帰国しエヴィンの都のコナハーのもとに向かうことを決意する。”


イェイツの戯曲ではこの全体の話ではなく、デアドラニーシァ(ニーシ)が大王コノハー(コナハー)と面会する一場面のみで描かれていて、こういう風なあらすじとなっている。

コノハーとの結婚の約束を破り駆け落ちしたデアドラとニーシァのことを許すといって、コノハーは二人と面会の約束をする。しかし約束の場所に二人が着くと、使いの者がいないため、デアドラはコノハーがニーシァを殺すために呼び出したのだと察する。やがて現れたコノハーにデアドラは、自分の身を捧げるからニーシァを許してほしいと懇願するが、コノハーはニーシァを処刑してしまい、デアドラはニーシァを追いかけて自害する。


シングのはデアドラが愛する人と強い決意をもって別れるのに対し、イェイツは愛する人のために死ぬという描き方である。

スポットが違うだけでなく、やはりイェイツ作品なのでガヤの楽師たちがいる。この作品での楽師たちは、歌い手にもなれば語り部にもなるし、道端の旅芸人にもなる。せっかくなのでデアドラと楽師たちのやりとり部分を紹介してみよう。

デアドラ  私を深く思って下さるお方があったの。お年寄りで、
      私は愛することができなかった。今は、ただもうこわい。
      その方はいくつかお約束をなさり、私を連れ戻しなさった。
      でも、心の中であれこれ思案するのだけれど、
      わからないのよ、お約束が当てにできる確かなものなのか、
      それとも釣り糸の先に付いたえさなのか。
楽師一            話に聞けば、そのお方は、
     けちなおじいさんが、くもの巣だらけの屋根裏に秘蔵する
     竜の玉さながらに、あなたさまを愛していなさったとか。
デアドラ  そういう愛し方をする者は、邪魔が入ると、
      ますますつのる愛の大波にのまれてもてあそばれ、
      浮き上がってくると、愛は憎しみに変わっていると言うのね。
      そして、王様は憎しみのあまり夜もろくろく眠らず、
      しまいには人を殺す。夜が明けて鶏の鳴く頃には、
      私たち、もう死んでいると言うのね。
楽師一            そうは申しておりません。
     死ぬほど好いた男に逃げられた時、私が責めたのは、
     手管にたけた恋がたきの女。男を責めはしませんでした。
     そして、恋の熱い思いが消えるまで、いちずに願っていましたよ、
     その男を連れ去って、思いのたけを聞かせてやれるものなら、
     やっぱり自分のそばに引き止めておきたいと。
デアドラ  ああ、わかった!こちらの王様は
      ニーシァを殺し、私を生かしておくと言うのだね。
楽師一  そうお受け取りになるのはあなたさまでして、私はただ、
     とりとめのないお話をいたしただけのこと。
デアドラ           お前たち旅芸人は、
      思慮分別だけを頼りに生きのびてゆくのだから、
      耳ざわりな事などむやみに口に出すはずがない。
      何かをほのめかすとすれば、
      ついこの頃自分で見聞きした事が胸につかえていて、
      しゃべりたくてうずうずしているのよ。
               〈松田誠思訳〉

(スマホで見られている方は読みづらくてすみません。詩劇なんで改行が多くて…)


同じモチーフに対して同世代の劇作家がそれぞれのアプローチで戯曲を書いているというのは、なかなか対比のしがいがあっておもしろいな。しかしやはりイェイツは詩劇だなというのが、とてもよく堪能できる作品かもしれない。


・鷹の泉 -At the Hawk's Well(1916)

日本ではイェイツといえばこれ、というイメージが強い。いろんなところで度々紹介されている、能楽演目『鷹姫』の原作。能の影響を受けた英語の作品としても最初のものである。とにかく能のことを強く意識されているので、まず舞台設定からしてめちゃくちゃ能っぽい。

舞台は壁の前の何もない空間であればよい。壁の前には模様入りの衝立がある。太鼓、銅鑼、ツィターが、開始前から衝立の近くに置いてある。必要なら、それらは観客着席ののち、楽師一が持ち込んでもよい。(中略)我々が室内でよく親しんでいる照明が最も有効だと思う。仮面を着けた役者たちは、彼らと我々を区別するための人為的手段のない場合の方が、現実離れして見えるのでよい。楽師一が畳んだ黒布をたずさえ、舞台中央に進み、前方に出てじっと立っている。畳んだ布は両手の間から垂れ下がっている。他の二人の楽師登場、舞台両袖にしばし立ったあと、楽師一の方に行き、歌いながらゆっくりと布を広げる。

想像できましたか?まず楽師が登場して舞台上で準備をする感じが能っぽい、というか楽師という存在自体がモロ能における地謡と囃子方なのである。役者は仮面を付けて登場するし、舞台美術なんてものはなく、道具は衝立「鷹を暗示した金の模様がある」布「泉を表す四角い青布」だけ。構成もモロ能で、楽師が台詞によって「場面説明」をしたり、時に物語の本筋ではない叙情的な歌を歌ったりする。


話の内容としては、『バーリャの浜辺で』に出てきた英雄クフーリンが同じくモチーフとして扱われている。話が逸れるけどクフーリンが出てくるイェイツの戯曲は5つもある。


さて『鷹の泉』には楽師の他は老人若者泉を守る女の三人が登場する。あらすじはこんな感じ。

湧き出る泉の水を飲めば不死になれるという伝説の泉があり、老人はその湧水を汲むために泉のそばで50年も待っている。しかし彼はこれまで、泉が湧いた瞬間になぜか眠りに落ちていて、成功したことがない。この泉の伝説を聞きつけた若者(クフーリン)がやってきて、自分ならきっと成功すると言うが、そこに泉の精霊の女が現れ舞い出す。老人は眠り、若者は戦地へと導かれてしまう。


せっかくなので、女が舞うシーンを抜粋して紹介してみる。

  (略)泉の女は外衣を脱ぎ立ち上がる。外衣の下の衣裳は鷹を暗示する。

若者  なにゆえその鷹の目つきでおれを凝視するのか。
    恐れぬぞ、お前などは。鳥であれ、女であれ、魔女であれ。

  泉のそばに進むが、泉の女はもうそこにはいない。

    お前が何を為そうともおれはこの場を動かぬぞ。
    お前同様不死の身になるまでは。
  
  若者は坐る。泉の女は鷹のように動きながらすでに舞い始めている。
  老人は眠り込む。舞いはしばしの間続く。

楽師一  (歌う。もしくは半ば節をつけて歌う調子で)
     おお神よ、突然に血管を駆けめぐる
     恐ろしい不死のものから
     わが身を守りたまえ。

  舞いはしばし続く。若者はゆっくりと立ち上がる。

楽師一  (語る)今や狂気が彼をとらえた。
     青ざめよろめきつつ立ち上がるぞ。

  舞いは続く。

若者  どこへ逃げようと
    灰色の鳥よ、お前をこの手に留まらせるぞ。
    女王と呼ばれた鳥もあったが、おれはこの手に留まらせたぞ。

  舞いは続く。

楽師一  (語る)水が跳ねるのを聞いた。出たぞ、出たぞ。
     ほら見ろ、水の光っている所を。彼も音を聞いたのだ。
     ほら振り返ったぞ。

  泉の女はすでに退場している。若者は夢遊状態のように槍を落とし退場。 
              〈風呂本武敏訳〉


作品自体のテーマとして、老人と若者の対比というのも興味深いポイントではあるのだけれど、この作品を考えるにあたっては結局象徴性と様式美というところに行き着く。まあ説明なんて野暮なんで、各々が各々に受け取って想像してください、と言うに尽きる。

そういえば、今書きながらふと思ったんだけど、地謡を筆頭に、いわばナレーターがいる芝居、というのはもしかして日本独特の表現形式だったりする?


・猫と月 -The Cat and the Moon(1931)

おそらく10分程度の短編。能の影響を散々語っているが、この作品は狂言の影響が見える。けっこう個人的に好きな戯曲でもある。

登場人物は目の見えない乞食足の悪い乞食三人の楽師。舞台設定はこう書いてある。

舞台 ー 壁を後ろにした場所ならどこでもよい。舞台装置はいっさいなく、ただ模様入りの衝立あるいは墓によって、壁の前に聖コールマンの泉を暗示すればよい。三人の楽師がツィター、太鼓、笛を持って壁際に坐っている。顔は仮面に似せてつくってある。

そしてあらすじはこんな感じ。

目の見えない乞食と足の悪い乞食は、願いをかなえてくれるという聖コールマンの泉を目指す。目の見えない乞食が足の悪い乞食を背負い、足の悪い乞食が道案内をする。二人は喧嘩が絶えないが、互いに補い合って共存している。泉に着くと聖者が現れ、二人に「癒してほしいのか、祝福を授かりたいのか」と尋ねる。目の見えない乞食は癒しを、足の悪い乞食は祝福を選ぶ。


聖者と遭遇したシーンから抜粋。

楽師一  (語りかける)お前たちは身体を癒して欲しいのか、それとも祝福を授かりたいのか。
足の悪い乞食  ひゃあ、聖者様の声だ。膝をつかねえと。

    二人ひざまずく。

目の見えない乞食  おれたちの前に立ってるのか。
足の悪い乞食  全然見えねえんだ。とねりこの木かな、それとも空かな。
楽師一  身体を癒して欲しいのか、それとも祝福を授かりたいのか。
足の悪い乞食  まただ。
目の見えない乞食  私は目を治してもらいてえんで。
楽師一  私は聖者だが、一人で寂しいのだ。お前は盲目のままで祝福を受けることを望まぬか。そうすればずっといっしょにいられるのだが。
目の見えない乞食  いえいえ、聖者様。どちらかにしろと言われると、私は二つの目が見えるようになりてえんで。目の見える奴らがしょっちゅう私の物を盗んでは嘘をつくんでごぜえます。それもすぐ近くの奴らもいるらしいんで。ですから聖者様、悪く思わんで下せえまし。私は二つの目が見えるようになりてえんでごぜえます。
足の悪い乞食  誰も盗んだり嘘をついたりしちゃいねえんですよ。そう思い込んでるだけなんですよ、ほんとに。今日も一日、私がこいつの羊を盗んだと思ってがみがみ言い通しなんですよ。
目の見えない乞食  こいつの着ている羊の皮の服の手ざわりからね、どうも、そんな気がするんですよ。だが私の羊は黒かったと聞いておりますが、聖者様、こいつの服はみごとな白で見るだけでも目の法薬だと、自分で言ってやがるんで。
楽師一  足の悪い男よ、お前は癒して欲しいのか、それとも祝福を授かりたいのか。
足の悪い乞食  祝福を授かったらどうなるんで。
楽師一  聖者や殉教者の仲間入りをすることになるのだ。
足の悪い乞食  何か帳面があって、祝福を授かった人間が名前を書いてもらうってのはほんとでごぜえますか。
楽師一  私は何度もその帳面を見たよ。お前の名前もそこへ書き込まれるだろう。
足の悪い乞食  二本の足が揃えば豪勢だろうが、帳面に名前を書いてもらう方がうんと豪勢かもしんねえな。
楽師一  それはその方が豪勢だよ。
足の悪い乞食  私は足はこのままでいいですから、聖者様、祝福の方をお願いします。
楽師一  父と子と聖霊の御名において、私はこの男には目を、この男には祝福を与える。
               〈佐野哲郎訳〉

この二人の乞食のやいのやいの感が狂言の太郎冠者と次郎冠者みたいだなと思っている。しかし終わり方は狂言のように賑やかではなく、ちょっと深いところに行く。目の見えない乞食が見えるようになることも、聖者が足の悪い乞食に与える「祝福」も、なかなかに皮肉であるのだ。こういう風刺がきいている感じがアイルランド演劇の面白いところなんだよなあ。


・煉獄 -Purgatory(1938)

これはイェイツ最後の戯曲で、なかなか傑作名高い。能楽の構成ではなく、ちょっと心霊的な感じの、たった数ページの二人芝居である。その短さにもかかわらず、ソポクレスのギリシャ悲劇『コロノスのオイディプス』やシェイクスピアの『リア王』に匹敵すると言わしめる作品。

登場人物は少年老人。少年はもうすぐ十六になる老人の子で、二人は行商人のようである。あらすじとしてはこんな感じ。

舞台は背景に廃屋と立ち枯れの木が一本。少年と老人がやってくる。老人はこの屋敷に前も来たことがあると話し出す。それから昔の話を語るなかで、ここが老人の生家で、かつて父親と暮らしていたが、十六のとき自分が父親を殺したということが明らかになる。それから二人は、稼いだ金をめぐって喧嘩になる。


詩劇であり、全体的に少し不気味なトーンで、じわりじわりと全貌が明らかになっていく、そうして人を追いつめていくような、そういう戯曲である。抜粋するのが難しいんだけど、こういう感じ。

老人  (略)あれはな、わしの生まれた家よ。
少年  焼けちまったっていう、あの古いお邸なのかい。
老人  おっ母さんのな、お前のばあさまに当たる人の持ち家だよ。
    ここらは見渡す限りすべての土地が、
    犬小屋に厩に、馬に猟犬、全部おっ母さんのものだったのさーー
    カラーの馬場には持ち馬がいてな、そこでおやじに出会ったんだ。
    おやじはそこの厩舎の馬丁、
    これに一目惚れして夫婦になったってわけさ。
    それからというもの、おふくろさんは二度と娘に口をきかなかったが、
    親とすりゃあ当たり前の話よ。
少年                当たり前もくそもあるもんか。
    じいさまは女と銭を手に入れたんだもんな。
               〈松田誠思訳〉


二人の登場人物の他に、老人の母親と父親の霊がほんの一瞬だが現れるというのも特徴。これがかなり良いスパイスになっている。しかしまあ、この戯曲に関してはかいつまんで紹介というのがどうにも難儀なので、とりわけ短いことだし、読んでみてくださいとしか言えない(二回目)。ただし先に言っておきますがこれ、後味がすこぶる悪いです。



戯曲はすべてこちらから。


イェイツと能

『鷹の泉』が日本の能楽演目『鷹姫』になったことやイェイツが日本の能に強く影響を受けたことは散々書いているが、これはイェイツの目指した「演劇の形」の理想が能であったらしく、これが日本で生まれ育ったアイルランド好き演劇人としてかなり興味深い。


イェイツは来日したことがなく、つまり本物の能楽公演を見たことはない。もちろん日本語も分からない。又聞きで聞いて、英訳された書物を読んで、その未知の舞台芸術にビビッときたようだ。

それがどうやってアイルランドの地で演劇作品として能楽と融合したかというと、『鷹の泉』初演においてイェイツと共に研究・制作に携わった伊藤道郎という日本人のダンサーがいて、彼は初演時に泉の女を演じている。日本の演劇というものを観たことがなかったイェイツがこの作品を完成させ、以降この構成を駆使して創作を続けていけたのはきっと彼の存在が大きかったに違いない。



「イェイツの戯曲」の項で少し触れた「サウィン精神」という考え方だが、具体的にアビーの前身の文学座時代に掲げた理想原則というのがある。

① われわれは劇場を知性が奮い立つような場となす劇を書き、見つけ出さなければならない。
② ことばにそれ本来の主権を回復するため、舞台で身振りより台詞を重視しなければならない。
③ 特に詩劇において、また『砂時計』のような現実から距離をおいた散文劇において、演技はシンプルなものでなければならない。
④ 身振りと台詞が競い合うことなく互いに調和するよう、舞台セットや衣装は、形も色もシンプルなものでなければならない。
「アベイ・シアター 1904-2004」 杉山寿美子より

もともとこういう考え方を持っていて、後から日本の能を知って「これぞ私の追い求めていた理想の演劇!」となったみたい。


少し詳しく背景を紹介しよう。イェイツに能を紹介したのは、彼の友人でアメリカ出身の詩人エズラ・パウンドという人で、この人はある時能の一曲『錦木(にしきぎ)』の英訳に携わった際に、能の世界にたいそう感激したのだそう。

で、もうちょい掘ると、このエズラ・パウンドが能に触れたのはアーネスト・フェノロサというアメリカ人がきっかけになる。彼は明治時代に来日し日本美術を深く探究していた、美術界では有名な人なのだが、この人が能もまた好きで、能楽作品の英訳もしていたそうだ。で、彼の死後、遺品の能に関する草稿がエズラ・パウンドの手に渡り、彼もまた能に心惹かれたというわけ。



元来イェイツは演劇にナショナルアイデンティティの再興をみていた。しかし、これは結局うまくいかなかった。要因はざっくり言うと二つあって、一つはイェイツ自身が「純血」のアイルランド人ではなく、イングランドからの支配階級の系譜であるアングロ・アイリッシュであったので、民族至上主義的なナショナリズム運動とは融合しきれなかったこと。これは島国に暮らすわたしたちはなんとなく理解できると思う。もう一つは、アビー・シアターを共同で運営していた友人たちが方向性の違いで次々と離れていってしまい(盟友で人気作家だったシングも亡くなる)、アビー・シアターの存続が現実的に難しくなったこと。

で、万人にたいしてアイルランド国民演劇を広める、という当初の理想を諦め、観客を選んでも自身の理想的な「神秘的な芸術」というのを作りたいと思うようになっていく。ここで能に出会ったわけだから、すっかり傾倒したんだろう。


様式的な構成抽象的な舞台、操り人形のような非現実的で象徴的な役者の動き、精霊や神や伝説上の人物などの超自然との結びつき仮面による異界の存在への変身、登場人物やエピソードと関係しない景色やイメージを歌う楽師の存在、などとにかく何もかもが能楽と共鳴しているわけなのだけど、まあ、当時の観客にとってこれが斬新と言わずなんと言おうか、といったもの。しかしイェイツの創作態度はすっかり「ごく一部の理解できる人が分かればそれでいい」という様子だったので、理解できない観客たちをことごとく置き去りにして我が理想を貫き、それが結果的には後世に残り影響を与えることとなったのだ。



能楽についてはわたしも絶賛勉強中でそんなにまだ詳しくないのだけど、ここらへんでとりあえずすっごい軽く能楽のことを説明しておきますね。大成したのはかの有名なスーパースター観阿弥・世阿弥親子で、室町時代のこと。当時は庶民のための演劇で、神社の境内とかに能舞台があって、野外で上演をしていた。たぶんだけど、お祭りで野外ステージがあっていろんな出し物やってるのあるじゃないですか、それを通りすがりの人が見たり見なかったりしている、あの感じなんですよね、きっと。昔の演劇の存在って。ヨーロッパでもそうだけど。


能楽を二種類に分けて能と狂言。だいたい一回の公演の中で能→狂言→能→狂言→能みたいなかんじで交互に上演される。能と狂言は別物なので、能をやる人、狂言をやる人、で完全に畑が分かれている。能は幽玄で神秘的、しっとりした静の空間なのに対し、狂言は簡単に言うとコントで、さっぱりしていて動の空間である。

能楽は基本的に「物語」それ自体が主役というもので、舞台上には「物」も「人」もほんとうに必要最小限しか存在していない、というのは、能を観たことがない人でも想像はつくと思う。この「受け手の想像力をもって作品が完成する」というのが能楽の最大の特徴であり魅力だと思うのだ。


そういえばちょうど能を扱っているドラマ「俺の家の話」がやってますね。宮藤官九郎脚本、長瀬智也主演の。すごい面白い。もうすぐ終わっちゃうけどよかったら見てください。クドカンドラマでかつて落語ブームが来ていることだし、能の時代、来るかしら。



こんなに能楽を語っているわたしだけど、何をかくそう、わたしはアイルランド演劇に出会う以前は能なんてぜんぜん知らなかった。中学の時かな、学校の観劇体験的なので観に行って見事に爆睡したので、「能は眠くなるやつ」という印象でしかなかったのよ。

能楽ってあまりに「古典!」という感じが強すぎて、われわれ現代人とはかけ離れたものだと思ってしまうんだけど(実際わたしも能楽に触れるまではそっち側にいたし)、能楽って歴史が長いからビビるだけで、案外日本の社会においてずっと馴染み深いもんだと思うのですよ。なんていうか、心の深いところに染み付いた美学っていうか。


ていうかだいたい、枕草子とか源氏物語とか、そのレベルの古典でさえ、案外人間の感覚って変わんないよなって思うじゃないすか、能楽だってそんなもんなのよ。600年前も1000年前も2000年前も、人間ってずっとみんな同じだな〜、考えることも感じることもいっしょだな〜と歴史を掘っていると思うわけですよ。由緒正しき崇高なものだと思うと身構えちゃうけど、深く考えないでわかる範囲でなんとなく楽しめばいいもんだと思うんだ(と、ど新規ファンが軽い発言をして申し訳ない)。



さて話を戻します。おそらくイェイツのおかげで、今に至るまでアイルランドの演劇界では能はそれなりの人気を持っており、例えば以前見学に訪れたことがある国立の演劇学校 The Gaiety School of Acting では授業プログラムに ”Noh Theatre” の授業の時間というのがあるそうだ。どういう授業をしてるのかめちゃめちゃ気になる。

またわたしがダブリンに滞在していた際にお世話になった某劇場のマネージャーは、能を取り入れた新作公演の制作に携わったことがあると言ってたし、とある劇場でチケットに並んでる時に前にいた若い女の子が演劇学生で、わたしがジャパニーズだと知ると能について熱く語ってきて、答えられない自分の無知さに恥ずかしくなったこともある。


だけど、100年以上前、日本の能に感銘を受けたイェイツが地球の反対側のアイルランドで能をもとに『鷹の泉』を書き、これがまた日本に舞い戻ってきて正式な能の演目『鷹姫』として上演されているの、すごい胸熱じゃないですか?これぞ文化の交流、じゃないですか?アイルランドと日本、共鳴してんのよ。わたしに能を語ってくれたアイルランドの彼らも間違いなく能が好きで、わたしが好きだと思ったアイルランドの演劇、に関わる人たちが日本の能が好きであることに、わたしは熱くなり、それから絶賛能楽を勉強中です。


『鷹姫』の上演の動画を貼っておくので、しっかり1時間半くらいありますが、ここまで読んでくださった方で興味を持ってくれたら、よかったらちらっとでも観てみてください。人間国宝の能楽師梅若玄祥と、アイルランドの有名なケルティック・コーラスグループ、アヌーナが共演したものです。




もし有識者の方がこれを読まれて、もし何か間違いなどがあればそっと教えてください。何卒。

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