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でぃしら d'ecila'(今から、そのときまで)


                    藤椿まよね


 美砂は、薄幸そうな子、とよく言われてきた。中学生になったころからは、人にそんな印象を与えていることを意識するようになった。自分の何が人にそんな感じを抱かせるのか、それをつかもうと努めてきた。

 単純に、それが武器になりうると感じたからだ。

 幼少の頃から、顔立ちは整っていた。

 とはいえ、人目を惹く顔立ちではない。明るく愛くるしい、人に好かれるタイプではなかった。人を振り返らせるような艶(あで)やかさもない。背が高くてスリムなモデル体型でもなければグラビアアイドル様のグラマラスなボディーでもない。打てば響くよな頭の回転の速さもなければ、コツコツやるタイプで成績はいい、でもなかった。

 長い髪は肩下まであるが、腰がなくぺシャンとしているし、色の白い肌はほくろが多くて台無しに近い。わりあい整っている顔立ちも、特徴がなく顔にさえいくつもあるほくろばかり目立つ気がする。

 救いは、自分で思うほどにはほくろが欠点になっていない、ということか。男子からは嘘かお世辞か「気にならないけど」の言葉を得ている。

 自分では気に入っている、波打って美しいと思うくちびるだが、厚みがないから、ぽってりふっくらとしたくちびるが流行の今は冴えないと思う。

 そんな美砂だが、男の子にはそこそこ、女の子にだって、案外モテる。「美砂ってふわふわしてて心配、ほっとけない」からだそうだ。

 それどころか迷惑にも少女愛好癖のあるおじさんにまでモテる。

 「美砂ちゃんははかなげで頼りなくて、いたいけな感じで、どことなくほのかに色気が感じられて心配な感じが、保護本能を刺激するんだよ」

 高校の入学式で父親代わりの叔父にはそんな風に言われて、美砂は理解したのだ。これを、上手に使わない手はない。

 実際、嫌な思いをたくさんしてきたのだ。子どものころからやせっぽちだった美砂だが、小5あたりで胸がふくらみはじめ初潮がきたあたりから、近所のおじさんやお兄さんの中の特定の人が、美砂に付きまとい始めたのだ。

 実際に小学生の頃に2回、中学生の頃に3回、カラダを触られたり男性器を見せられたり触れさせられたりした。ただ、一番初めに美砂に触れた近所のおじさんは、そのことを母に告げると警察までくる大騒ぎになったあげく、逮捕されてしまった。のちにいろいろと余罪があっての逮捕だったと知るが、その時はまだ小5の無垢な少女、警察の男の人に同じことを何度も聞かれて、何をされたのか事細かに尋ねるその人もおじさんと同じ目つきの人で、とても怖かった。威圧感がない分、ちやほやしてくるおじさんの方が好ましいとさえ、美砂は感じたのだ。

 母さえ、「何故ひとりでそんな人気のない場所を歩いていたのだ」と不注意を責め、美砂の心におおきなえぐられたような跡が残った。

 だから、それ以降は誰にも話していない。



 あまり運動は得意ではないが、それがかえって薄幸な感じにはいいようだ。 

 アクティブなショートヘアより、切りそろえていないロングヘア。二重だけどシャドーやマスカラで目を大きくするとマイナス。やや伏し目がちに見上げる方がいい。リップは薄いピンクだと健康的になってしまうから、つけるなら鈍くて重たい色味の赤を。

 自分では眠そうな感じで腰のない髪を耳にかきあげて、斜に見上げて見せると「物憂げなまなざし」になるらしい。言葉づかいも、ひとつ間をおいて考えてるふうを装ってからゆっくりと喋る。低い地声では、雰囲気が出すぎるからあえてやや高めの声で、ちいさな声でゆっくりと喋る。

 そうやって薄幸そうな印象を強化する。美砂はそうした事柄を少しづつ身に着けてきた。そうやって、高校でも埋没を避けてきた。

 埋没は、女子高校生にとって重大な問題を引き起こす。スクールカーストなどと呼ばれることもある、色付け順位付けされたグループの、下位の層に組み込まれてしまう。

 美人でオシャレで「校外活動」にいそしむ「モテ女子」グループを頂点にした序列から、全体的には上位で外れていたい。それが美砂の願いだからだ。一匹狼、と認識されても序列のどのあたりで外れているかは重要だと思う。下位なら単にいじめの対象でしかない。

 割と早めに自身が他人に与える印象を意図的に操作し始めた美砂は、なんの取り柄もないにもかかわらず、「モテ」グループから一目置かれる次点あたりに位置している。

 「みさっち、秋葉原でお小遣い稼ぎしてるらしいよ」というどこからともなく漏れ出るうわさをあえて否定しなかった。先に記した「おじさんモテ」の印象は何もせずともそれを裏打ちする。

 「みさっち、ぼんやりしてるから心配」「みちゃみちゃといるとなんか、ほわーんとして、癒されるよね」と、「モテ」グループが美砂のまわりでおしゃべりしているだけで、美砂の位置は上位安定なのだった。

 美砂が、本当におっさんと「JKお散歩」をしていようがいまいが、彼女たちにはどうでもいい。オシャレで異性にモテ、雑誌に載り、同性の憧れの対象になる、それが「モテ」グループのステイタスだ。美砂はそれを脅かすものではない、いわばそう見切られていることで、「みちゃみちゃ、アンニュイだぜ、髪をまとめると」「わー、やらしてー、をー、色っぽいじゃん、みちゃみちゃなんでこう、ぷちエロなんだー?」などといじられるのだ。

 薄幸そうな印象は、「校外活動」にいそしんで充実している、そう思われたい「モテ」グループに敵対心を抱かせない。

 そして、「モテ」グループの外側にいることで、彼女たちよりちょっとハードルが低くなって男子にモテるわけだ。

 もちろん、それは砂上の楼閣だから、なんの取り柄も無いのに虎の威を借りて、ということに忸怩たる思いだってあるのだが、それよりも日々の生活が大切なのだった。



 母子家庭に育った美砂は、高校を卒業すると割に大きな地元の企業に就職した。配属は総務部だ。

 進学したい、と思うほど勉強が好きではなかったし、母の庇護のもとから抜け出したい、という気持ちが強かった。

 「みちゃみちゃ、ワリキリやってっから案外オシャレ金掛けてんぜ」高校時代はそう言われて、否定もしなかったが実際には処女だった。

 痩せぎすの美砂が、質素な印象のシンプルなワンピースでデートに行けば、大抵のパパは「もっと明るい、年頃の女の子らしいワンピースを着なさい」と、お小遣いをはずんでくれた。次のデートでそれを着てゆけば、再びお小遣いにおまけがつく。うまくすると百円の古着のワンピがブランド物の三万円や五万円のワンピースに化けるのだ。

 もともとが「JKお散歩」だったにしても、何人かのパパと肉体関係を持たずにこれたのは、単に幸運だったから、だろう。ワリキリ(売り)はやらない、と決めていた仲間のかなりの数は、無理やりやられていたからだ。後ろ盾のない無店舗営業では、暴力から逃れることは難しい。

 美砂は、警戒もしてきたけれど、なんとか幸運にも危険をやり過ごしてこられた。アイドルや読者モデルにならないか、という触れ込みのスカウトにも興味がなかった。それも、幸運だったろう。騙されてやられてしまった知人もいた。

 勤めている会社の部長に、処女はくれてやった。降りかかる火の粉を前に、いつまでも処女はないよなあ、とはいえ、違う部署を選んだにしても社内だと終わった時に面倒くさいよなあ、と考えていたところに、「美砂君、秘密で一緒に来ないか」と、台湾出張に同行しないかという部長の誘いだった。まあ、海外旅行おごってくれるなら、やらせてもしょうがないか、と応じたのだ。

 この部長は愛人慣れしている人で、社内には隠し通せた。だから、それ以降も社内で声をかけてくる男はたくさんいた。愛人を持ちかけてくる上司も何人もいた。取引先の社長さんも。



 翌年の春、新入社員の中に、アサヒナルナがいた。総務部秘書室の同僚が退社し、補充で彼女が配属になった。美砂が指導担当になった。

 「朝比奈月菜です」明るくて威勢の良い、美砂よりもふたつみっつ年上に感じる女性だった。実際にはひとつだけ年上だ。

 朝比奈月菜は誰からも好かれる明るくて性格の良い女性だった。「みちゃみちゃ」と呼ばれている美砂を「みちゃ先輩」と慕ってくれた。「みちゃ先輩、抜けてるから心配」と、頭の回転が速くて物覚えの良い朝比奈月菜が先頭に立ってくれる。指導するどころか、真剣に仕事をしたことがない美砂の業務を肩代わりしてくれる有様だった。

 送別会、歓迎会、と会社の仲間と酒の席が続く。美砂は当然、そのたびに男から声をかけられる。部長の愛人であるあいだは、ややこしくなるから彼氏はつくらなくていい、そう思っていたから、誘いをすべて断っていた。

 だいたい、こんな薄幸そうな暗い女と本気でお付き合いしたいだなんて、そんな男がいるとは思えない。力の弱そうな女を見て屈服できそうと思って寄ってくる男なんて、願い下げだ。カラダくらい、別にいつだってやらしてやるけどそれに見合った心の安定が欲しい。部長は少なくとも金銭的な補償と一時の安らぎを美砂に与えてくれる。妻と不仲だの離婚する予定だのと無粋な言葉を言わないし。

 部長との仲を知らない朝比奈月菜が尋ねてくる。「みちゃ先輩、彼氏欲しくないんです?彼氏いた方がいいですよ、なーんか心配、みちゃみちゃひとりじゃどこ行っちゃうんだろって」

「悪い男に引っかからないかって?」

「そうそう」とうなづいて声をあげて笑う朝比奈月菜。急にまじめな表情で美砂に向き合う。「知ってます。てか、気づきました。隠し彼氏、いるでしょみちゃ先輩」

 とりあえずだんまりを決めこみつつ、心臓がいきなりドクンと美砂の身体を震わせる。

 「通勤バッグの、コンドーム、ちゃんと消費してますよね、こないだと銘柄違うし、ローション、化粧水の瓶に詰めてます?」

「・・・見たの?」

「フフフ」朝比奈月菜は不敵に笑って答えず、美砂の手を取る。「ちょっと安心したんです、ああよかったって。コンドーム使うよな相手ならまあ、いいかって」

こいつひとのバッグ勝手にのぞきやがって、案外油断なんねえ奴だな、性格悪いな、美砂のそんな気持ちが顔に出たろうか、朝比奈月菜は美砂の手をギュッとした。

「配属になって、みちゃ先輩とプライマリーペアになった時、すごく嬉しかったんですわたし。だって、なかなかいないでしょう?こんな天然おまぬけさん、っぽいひとが秘書室だなんて」

いや、とても他の部署、務まるとも思えんが、自分自身。

「わたし中高、短大って女子高で、演劇部で。ずっと人間観察、してます」朝比奈月菜が正面ではなく横に並ぶように寄り添って、自然とふたりは歩きはじめる。「ひとって、みんなTPOに応じてキャラつくってますけど、その中でも天然系ドジっ子キャラは、みんな養殖で、ホントにそういう人っているわけないって思ってて、だからみちゃ先輩のこと、興味津々です」

「ドジっ子じゃないし」

 朝比奈月菜は声を上げて笑った。ころころ、と言いなすとぴったりな、鈴が転がるような笑い声。「薄幸秘書室、って言われてますよ」

失礼な。「知ってるし」

「だから、オトコがいたとして、だめんずに引っかってるかも、って心配してたらコンドーム持ってるしセックスのローション持ってるし、ああよかったって」

過干渉に腹が立って美砂は声を張る。「あんたねえ!」「ごめんなさい」出鼻をくじいて朝比奈月菜は続けた。「だってまさかウリやってるじゃあ、ないんでしょ?」

話の跳び方に理解が追い付かずひとつ遅れる。「え?ウリって?」

 朝比奈月菜がカマかけたのだった。美砂の反応を、その眉の動きひとつ、くちびるの動きかけた発しかけた言葉ひとつ、まなざしの揺らぎひとつ見逃すものかと見つめていた。藪にらみに不快感をこめて睨み返す美砂。

 「カラダなんて売ってないし」ま、愛人だけどね。

 朝比奈月菜がニッと微笑む。「よかったぁ。心配してるんですよ、みちゃみちゃぼんやりしてたらAVとかのスカウトに連れてかれたりしそうだから」そんな物言いで、ひとのかばんを無断でのぞき見したことを胡麻化すつもりだなコイツ。

「そこまでぼんやりしてねーし」

「わりとほんとのぼんやりキャラでしょう?みちゃ先輩ぼんやりしててきっと気づかないよ、そういうキャラ、つくってます?つくってないでしょ?わりと、素でしょう?だからちょっと、心配なの」

 美砂は、真顔で探りを入れてくる朝比奈月菜の真意を計りかねて惑う。

 「なんか、感情全部、表情になっちゃうひとですねえ、みちゃ先輩。そこも不幸せな頼りなさの演出になってるなあ」

 ふたりは喫茶コーナーで自販機のコーヒーを買って、隅の休憩席に滑り込む。案外人の多い昼下がり。ざわついた人々は同じビルの中にオフィスがあるひとたち、女性が多い。

 「おっ!みちゃみちゃ、美人と一緒だね!また今度!」

 声をかけられて会釈する美砂。

 「それであたしにどうしろっていうの?」

「え?」そんなに意外な問いだったろうか。朝比奈月菜のひとみが見開かれて目玉が飛び出さんばかりだ。「いやいや、べつに、みちゃ先輩のこと好きなんで心配してるだけです」

美砂は意図して疑いの表情を作る。「大きなお世話だ」

 人の目人の耳を意識したか朝比奈月菜はそれ以上その話題に触れなかった。



 とはいえ、同じ職場で終始一緒にいる同僚が、美砂をターゲットに探偵めいたことをしているでは、おちおちと部長と逢引きも出来やしない。そんなで美砂は、部長との仲を清算することにした。

 とは言っても、たんに別れてくれああいいよ、といくとも思えないから策を弄することにする。部長が目をつけていた次のターゲットをおびき出す。うまく立ち回って部長のお手付きにして、美砂は身を引く旨をつたえる。新しい愛人に夢中の部長は美砂を深追いしてはこない。大まかに言うとそんなことで美砂はフリーになった。

 しかし、この動きは朝比奈月菜の情報網には筒抜けになっていたようだ。意外なほどスムーズに事が運んだのは、朝比奈月菜が手助けをしたのかもしれない。

 幾日も間を開けず、美砂は思わぬ展開に驚くことになった。

 倉庫にコピー用紙を取りに入ると、美砂を追ってきた朝比奈月菜が後ろ手に鍵をかけて言う。

 「みちゃ先輩、今晩時間ください。フリーになったお祝いをしましょうよ、あんなおやじとやってたなんて、虫唾が走る」眉間に皺よせて口をへの字にして、朝比奈月菜が毒を吐く。

 「いいでしょあたしが誰とやってようが」関係ないでしょあんたには、という言葉は飲み込んだ。美砂に歩み寄ると、朝比奈月菜はまっすぐに美砂を見つめてくる。ぐっと顔を寄せてくる。

「みちゃみちゃのカラダを舐めまわしてたのが、あんなおっさんだって、わかったときあたし、もう、 、」朝比奈月菜がすっと腕を伸ばして美砂のカラダを捕らえる。抱き寄せられて美砂の耳元に朝比奈月菜の吐息が降りてくる。「るなちん、嫉妬で狂いそうでした」

 ゆっくりと強くなっていく腕のちから。朝比奈月菜に抱きしめられて美砂は動けない。

 「みちゃ先輩、オンナとやったこと、ないですか?」

 低く低く、耳元で息のかかる近さで柔らかく甘く朝比奈月菜がささやく。予期していなかった展開に、美砂はゴクリと音を立ててつばを飲み込む。

 体に伝わる動きでくすりと朝比奈月菜が笑うのがわかる。

「あたしノンケだし、朝比奈とそういうつもりない」少し怒りの口調を作ってみたがどうだったろうか。朝比奈月菜の反応が見たいが抱きしめられていて表情はわからない。

 朝比奈月菜がまた、くすりと体を震わせた。

 「みちゃみちゃ、かわいい。才能ですよね、かまいたくなっちゃう。オンナはいいですよ、だって、女がして欲しい事、ぜんぶわかるから。いいとこまでして、直前に絶妙にやめて、じらす、とか男じゃできないですよ、るなちん、みちゃみちゃとしたい」

「いらない」

 強い口調で拒絶したとたん、朝比奈月菜の柔らかなくちびるとなんだか切ないミルクのような香りに美砂のくちびるはふさがれて、しかもうなじに伸びていた朝比奈月菜の細い指先が、潜りこんで懐柔するかのように美砂の後頭部を撫でて逃げることもできない。

 「ほら。うるうるでしょ」

朝比奈月菜のひとみが見つめてくるのに対抗できずに、美砂は目を伏せる。

「ほらほら、うるうるでしょう?きもちいい、の、好きでしょ?」

 強引すぎる朝比奈月菜を睨みつけようとして顔をあげれば、いつのまにかひとみにあふれんばかりに涙がいて視界が歪む。「みちゃみちゃの涙に、男は動揺しちゃうけど、るなちんはしないよ」そう言うと、朝比奈月菜のくちびるが美砂の涙を舐めとっていく。

 鳥肌の立つ皮膚感覚。

 ピントが合わぬほど至近で見る朝比奈月菜の顔、肌、きれい。

突き飛ばして拒絶したい気持ちが立ち消えてゆく。

 ざらついたオヤジの肌じゃなくて、あたしも、このすべすべきれいな朝比奈月菜の頬を、舐めてみたい。

 恥ずかしくて、真っ赤になっていくのが自分でもわかって、美砂は混乱する。わたしは、朝比奈月菜を受け入れてるんだろうか。

 「メイクっておいしくないんだよね」そう言いながら朝比奈月菜は美砂のはなを舐めて、そしてもう一度、柔らかくついばむように美砂のくちびるを捕らえる。

 「これってもう、セックスですよ」朝比奈月菜がくすくす笑う。その揺れが気持ちいい。混乱したままの美砂の耳の後ろにキスをして、朝比奈月菜は美砂のうなじを舐める。

「思った通りの、あたし好みの、匂い」やめて、汗のにおいなんて嗅がないで。美砂は口にしたいのにできずに赤面するばかりの自分に吐息をもらして不服を表明する。

 朝比奈月菜のカラダからはミルクのような体臭が立ち昇るが、それは不快ではない。

 「いいですか?みちゃみちゃ、あたしに時間をください。あ、返事はイエス以外は認めないから、そのつもりで」

 こうして、美砂は朝比奈月菜に手玉に取られてしまったのだ。



 女同士のセックスって、何するんだ?と思っていたのは単によく知らなかったから、だった。目的が妊娠なら男根の挿入と射精がいるのだろうが、そうではないのだ。

 指と手のひらだけで、指を挿入する事さえなくても。そして、自分で触るのと人が触るのは違う。朝比奈月菜の言う、女のして欲しい事全部わかる、はやはり言い過ぎで、十人十色、こっちの要求とあちらの欲望は食い違う。それでも男とまったく違うのは、すべてが柔らかくやさしく強引さがない、痛くない事だろう。さらにくちびると舌。さらに言葉。息のかかる近さでのかすかなささやきから、きつめの低い声の命令口調まで。朝比奈月菜は底知れぬバリエーションを見せつける。セックスはコミュニケーションだ、としたら女同士のセックスこそそれを最も実感できるカタチだ。

 はじめて朝比奈月菜にいかされた美砂は、思わず尋ねた。「あたし、もう男とできないの?男とじゃイけないの?」

 すると美沙のお尻のカーブを指でなぞりながら朝比奈月菜は応じた。「べつに、できるでしょ、イイかどうかイけるかどうか、は知らないけど、みちゃみちゃがほんとに受け入れたオトコなら、ダイジョブじゃん?」「そうなの?ほんとの彼氏ならってこと?」

いきなり朝比奈月菜がぐるっと身をひねり、美砂に背を向けた。「知らないよあたしオトコ相手じゃ処女だもん」その口調の、怒っているより拗ねたよな雰囲気に、わかっているのに付き合ってしまう。

 「ごめん朝比奈。想像してたのと違って、とってもいいから、この道にどっぷり、な気がして、ほら、そういう心構えあるわけじゃないから」朝比奈月菜の髪を頭からやさしく首の後ろへ流し梳かして、その頬にくちびるをつける。迎えにこないから、美砂はのしかかるように朝比奈月菜のくちびるを奪いにいく。

 朝比奈月菜の腕が、美砂の首筋を迎えた。



 あえて、みちゃ先輩、朝比奈、という互いの呼び方も変えなかった。その方がいい、とふたりは自然と判断したのだ。

美砂は、鏡に映る自分の表情が明るくて生気にあふれ、満ち足りて幸せそうに見えるような気がする。女は背徳性に弱いけれど、愛人関係の背徳性とは種類の違うやましさが、レズビアンにはあった。それに加えて職場の同僚と、という秘匿を要する関係。

 「みちゃ先輩、明日の社長同行者リスト、営業二課長と経理に持ってってください」「朝比奈、出張携帯費の請求は?」「出てます、携帯費」「誰に渡すの?」「手代木課長代理に」「じゃ、それも伝えとくね。手代木さんイケメンだからよろめいちゃうかも」「バッカ」

 例えばこんな、就業中のやりとりでオンナはオナニーできる。相手が朝比奈月菜なのであれば、それこそ際限なく妄想できる。そうやってこうしてやりたい、というネタを蓄えておいて、と朝比奈月菜に教えられたのだ。

 それが顔に現れて幸せそうに見えてやしないか、と心配する昨今なのだが、それは美砂の杞憂らしい。相変わらず薄幸秘書室という呼び名で通っていた。

 だが、女のどこに何に惚れるのやら、オトコとはわからないものだ。これまでもそれとなく声をかけてくる者は社内に限っても大勢いたが、逆に社内ゆえ大事にできず深追いしてこなかっただけなのかもしれない。

「みちゃ先輩、オサンポカ商事のミハルさまよりお電話です」取り次いだ朝比奈月菜は電話のあと言ったものだ。「秘書室ってあまり外に出ないけど、向こうから寄ってきちゃうからなあ、るなちん心配」

 その通りなのだった。オサンポカ商事の三春倖は、担当と面会した後で、小さな紙に自身のSNSを書き込んだメモを手渡してきた。

「三春さん、あたしに気があるみたいよ」

「うわっっそりゃ悪い虫だな、かなり悪い虫っぽい」ぶんぶんと大げさに首を振りながら朝比奈月菜は美砂のうなじのほくろに触れる。

 「三春さんに連絡してみてもいい?」

「バッカじゃん、そいつにやられたいの?」いつだったか、朝比奈月菜が自分でぷんすかづら、と言っていた頬を膨らせた顔で美砂を睨む。うなじのほくろに当てていた指をぐりぐりと強くこする。「みちゃみちゃのほくろを数えていいのはあたしだけ」思わず吹き出して笑ってしまう美砂、「笑うな」朝比奈月菜はいたってまじめな表情で美砂をにらみつける。

 「だって、数えらんないでしょ、多くって」自嘲気味の薄笑いでごまかしながら美砂は、朝比奈月菜の手を払った。

「281、あるんだよ」真面目な顔で朝比奈月菜が言う。「薄いのとか小さいのとか、くっついてるのとか、数に入れるかどうかみたいなとこ、あるけど」

「ほんとに数えたの?」片眉をあげて疑義を表す美砂にいたってまじめな表情でうなづく朝比奈月菜。

 美砂の手を探す、美砂の手を握る、声のないまま流れていく時間。

 「朝比奈、ばかみたい」言いながら美砂の目から涙がこぼれて握られた朝比奈月菜の手に落ちる。その手の甲の涙を、美砂をきっちりととらえ見つめたまま舐めとる、目を細めてうなづくようにかすかに笑う、くちびるをすぼめて鳴らない口笛を吹いて祝福する。

 この、求めているところへぴったりな大きさの球をこれ以上ないタイミングで投げ込んでくる、そんな絶妙さがオンナがオンナを愛している、ということなのだ、と美砂は実感する。



 だが、美砂は三春倖の誘いを受けた。

 女以外では処女なのだ、と自称する朝比奈月菜よりも、一人とはいえ男を知る美砂の方が期待が大きいのかもしれない。ただ、男と女なんてしょせんは性別以上に違う生き物だろう、という諦観が美砂にはある。朝比奈月菜と付き合っているとなおそれを感じる。

 だから、かもしれない。

 裏切られたかった、というか。美砂の行動原理とは違う反応の男と、すれ違う心のむなしさを感じて遊びたかったというか。

 ストレートに美砂とのセックスを求めた朝比奈月菜とは大違いで、まああたりまえのことではあるのだけれど、三春倖は手を握るところから始める。やりたいのはセックスなんだから、まずは一発やってみて、案外気が合うね、のあとそれからじっくりと心の中をさらけ出し合った朝比奈月菜とくらべては酷だろうが、それにしてもまどろっこしい。

 そして、お互いにベッドインを目標にしつつ探り合う、手を出しては引っ込める、これが男との恋なのだ、男ならではの面白さなのだ、そう感じてこれはこれで美砂には嬉しい。



 だが。

 美砂としては、別に朝比奈月菜との恋人関係をふざけていたわけではないし、三春倖との恋人関係を遊びと割り切っていたわけではない。どちらかを本命だなんて思いつつ付き合っていたわけでもない。

 だが、二股、と責め寄るのであれば、その通りです、と答えるしかない。三春倖とのあいだの出来事を、朝比奈月菜に対しすべて隠しおおせるわけはないから、そろそろ寝ます、たぶん明日あたりラブホじゃないかしら、というタイミングで朝比奈月菜に報告したのだ。

 「オンナとは別腹だよ、とか言い出すんですか」朝比奈月菜のひとみが震える、持ち上げた手の行き場所に困って髪をかきあげる、小首をかしげるようにして滲みだした涙がこぼれぬように耐える。くちびるを噛み頬を痙攣させて辛さを隠せず表層に出してくる。

 思っていた以上に少女な反応に美砂は動揺して、言葉を重ねてしまう。「いやいや、そんなことない、朝比奈月菜のこと、愛してるよ、かけがえのないひとと思って大切にしたいって、失いたくないって思っているよ、そこに女だとか男だとかはないよ、大切なパートナー」朝比奈月菜がさえぎる「あれとデート、してる、みちゃみちゃがあれとたの、しそうにデートしてる、そのあいだ、あたし何してたどうし、てたと思っていたんです?」はらはらとこぼれ落ちる、涙。

 「朝比奈、あたし」

 朝比奈月菜がゆっくりと顔を寄せてきて、しゃくりあげたまま手を取りもせず体を抱きもせず、ひとみはうつろに、けれどはっきりと見つめて、根負けして小首をかしげる美砂に小さく柔らかくついばむようにキスをして、そして、すん、とすすりあげてから、とんっと軽く突き放した。

 「いってらっしゃい」

 振り返ると歩き去る朝比奈月菜が見える。声さえかけられず置き去りにされた美砂。

 まあ、しかたないか、裏切りは裏切りだ、美砂の顔だってきっと、朝比奈月菜と同じ様にべそかきづらだろう、そう、美砂は自身を勇気づけた。



 三春倖は21階のレストランから降りてくるエレベーターの中で美砂にキスをして、胸を合わせてお尻に手を当てたまま、「美砂さんが好きです、美砂さんとしたいです」とささやいた。

 三春倖なりのロマンティックな演出なんだろうなこれって、などと思いつつ美砂はどういう反応が正解なんだろうと迷う。

 JKお散歩みたいなアルバイトなら、基本的にはやや積極的にボディータッチ込みで仕掛けつつ、じらす、じらす、ひとつ言うこと聞いてやるじらす、を繰り返していればよかった。パンツの中に指を入れさせない、そこまでくる客にはレッドカードで引きあげて事務所に報告、でよかった。

 あっちはJKのカラダに触る、こっちはお金、互いに交換するものがわかりやすい。部長の愛人にしたって、同じ行動原理だ。

 朝比奈月菜とは、あっちにおまかせで交際してきた。こちらの望みと相手の望みが同じ。

 いやさ、三春倖と美砂だって望みは一緒と思うよ。であれば「やりたいです」でいいんじゃね? いやいやいや、だから、それをどう表現するかでしょ。はい、とか、うん、とか言うのか、言わずにうなづくとか猛烈チューで返り討ちにするとか、さ。

 いやーここはやっぱ、乙女チック路線じゃないの?

 ちょっと体を離して、三春倖を潤んだひとみで見つめたあと美砂は、その胸に顔を埋めるようにして抱きついた。



 ラブホの入り口で、美砂の手をひいたまま三春倖は振り返り、「いい?」などと再確認する。うなづく美砂。厭なら手を離して、三春さんとはそんなつもりじゃないですとか、今日はちょっと、察してくださいとかなんとかいって逃げるだろ?ここまで来て聞くなよ。

 三春倖はセックスも頼りなかった。オーラルセックス抜きで、楽しむとは程遠い、生殖のようなセックス。ただそれは、三春倖という男性の優しさか、美砂に対しての真剣さかもしれなかった。何故って、「なんだかほっとしました。美砂さんとやっと恋人同士になれた、そういう気がします」そうつぶやいて笑みを見せた三春倖の表情は、とても素敵だったのだ。

 嬉しいを、照れてかみ殺しそれでもこぼれ落ちる笑み、そんな感じで、女として求められていることの喜びを、美砂は素直に認めた。

 ちくしょう、あたしって何なんだ。朝比奈月菜に惚れてるのに三春倖にもココロ揺さぶられて、バイセクシュアルだとしても、これは二股をかけてるって事だろ。この男には隠し通すとして、朝比奈月菜になんて言うんだ?あっちにも惚れましたって?

 「信じてくれているはず、そんなふうに思いながら何度も裏切られてきました。父と母もお互いに相手を裏切って破局しました」三春倖はふーぅ、と大きく息を吐いてまた小さな笑みをよこす。「それでも、美砂、さんはなんだか柔らかくて、信じていい、信じてくれるだろうって、そう感じました」

 美砂は少しドキドキと胸が速くなる。くそー、こいついきなり重いな。はなから裏切ってるのにあたし。

「薄幸秘書室、という陰口も聞きましたよ。確かにこの人ははかなげで、幸の薄そうに見える。ただ、みえる、とホント、みえると真実は別だから、そう想像していた通りでした」

 うわーやばいな。真剣だねこのひと。あたしは別にそんな深く考えてないのに。

 美砂は気持ちが重たくつぶれて、払うに払えないおもりを抱かされたように感じた。



 三春倖には結婚願望があって、「はい」と返事さえすればすぐにでも入籍挙式へなだれ込んでゆきそうな雰囲気を漂わせている。

 付き合うにつれ、セックスだって、美砂がこうしてほしい、と要求すればその通りに攻めてくる柔軟さもあって、美砂自身心が三春倖へ流れていくのを感じる。適齢期の女性社員からは優良物件に見える三春倖だから、取引先営業の中ではなかなか人気者らしい。

 女子高育ちで女社会で生きてきた朝比奈月菜や、ずっと愛人を社内調達して囲いながら、表沙汰にせずうまいこと立ち回ってきた部長とは違って、三春倖にそんな腹芸の器用さを求めるのは酷、と言うべきか。オサンポカ商事の三春倖と薄幸秘書室、美砂との仲は社内でささやかれるようになってしまった。

 「ごめんね。朝比奈には、償いきれないなあって、思っている」

 朝比奈月菜のアパートのベッドの上で、並んで腰かけながら美砂が言った言葉のどこかに腹を立てて、朝比奈月菜が美砂の手をつねる。

「痛いよ、朝比奈」

 いつもの元気の良さがまるきり感じられない朝比奈月菜。顔を上げもせず、自分の手、ネイルを見つめながら声さえ小さい。「わかってる。みちゃが、みちゃは、ビアンじゃあないんだから、オトコに持ってかれちゃうの、あるかもって、けどけど、気持ちは整理、できないの」

 朝比奈月菜の滑らかな頬、小さなちょっと尖ったはな、少し開いたまま小刻みに震えている柔らかなくちびる、すっきりと無駄のないあごの線、少女と女の境界でまだ少女の側に踏みとどまっているデコルテ。

 このコを離したくない。

 この気持ちは、ずるいのだろうか。三春倖と、ヘテロセクシュアルとして関係を続けて先へ進めておきながら、それでも、心も体も、真に安心してゆだねられるのは朝比奈月菜なのだ。この先に結婚だの出産だの子育てだの介護だの、女の人生の困難な様々な障害物が見えない分、無心に互いを求めあうことに打算もマウンティングも収支決済もない。

 「赦さなくていいよ、ただ、あたしを棄てないで」その美砂の言葉が言い終わらないうちに朝比奈月菜が美砂に跳びかかり、ベッドに組み伏せる。

 荒い、息。

 朝比奈月菜の鈍いけれど重い眼光。柔らかなくちびるが半開きで美砂を誘うが遠い。くちびるがためらいがちに開く。

「棄てたいよできるならみちゃにあてつけてオトコつくってふってやりたいよ。・・・それができるなら」

 揺れるひとみ。ピアスが小刻みに震えている。

 三春倖との恋人関係は幸せをもたらしはしないのだろうか、朝比奈月菜の心を苦しめて美砂はそれで三春倖と幸せと言えるのだろうか。そのきりきりと痛む後ろめたさを超えてまで先へ行ける決意が、美砂にはあるのだろうか。

 「あたしだって、・・・」言いよどんで発しきれない言葉を、朝比奈月菜が無言のまま催促する。「あたしだって、朝比奈も三春倖も選べないどっちつかずをやめたいよ、やめたいよ、やめたいんだよ、だけど、だけど」

 朝比奈月菜は息をしてるだろうか。

 このくちびるを、そのやらかくて気持ちいいくちびるでふさいでほしい、美砂の気持ちを朝比奈月菜はわかっているのだろうが、それを選ばない。そして、無言を貫くことで幕引きの順延を美砂にさせるのは、朝比奈月菜のしたたかさだろうか。

 「このまま、三春さんを裏切ってでも、あたしは朝比奈月菜と続けていきたい」

 朝比奈月菜が、じっと、美砂を見つめている。言葉のない音のない停止した時間を上空を飛ぶ旅客機のジェットノイズが引き裂いていく。そして美砂の首筋に細い細い指が滑らかに動いてまとわりつく。

 ゆっくりと長く、息を吐いて朝比奈月菜はほんの少し微笑んだように感じる。

 「殺したい?」尋ねた美砂の従順な微笑みに、うなづいて朝比奈月菜はゆっくりと美砂のうえにカラダを降ろして密着させてくる。「もうこのまま、みちゃと死ねたらいいのに。誰にも渡したくないの」

 美砂のくちびるをむさぼった後に、「はぁぁぁぅぅ」と吐息を声に出して美砂の耳元に吐き出し、朝比奈月菜はささやく。「いいよ。あたしのみちゃ、誰にも渡さないあたしのみちゃみちゃ、いいよあいつと一緒になって、子どもを産みなよ、あたしはみちゃの親友ってことで、いつまでも付きまとってあげる、あんたの隠された欲望を引きずり出してあげる。関係を秘め続けるなら今と変わらない」



 案の定、三春倖との仲は結婚に向けて勢いよく流れていく。美砂の家庭環境という、相手の家柄によっては問題になりそうなことも障壁にならなかった。なんとなれば三春倖も母子家庭で育ったからだ。

 薄幸秘書室美砂の結婚は意外なほど大きな祝福でもって社内で受け入れられた。ハネムーン帰りの秘書室にはお祝いの花が多数飾られて、あたかも新規開店の事務所の様だった。

 朝比奈月菜はもちろん式にも出席したし、誰よりも祝福してくれた。そして、そう見えるだけなのだということも、美砂にはわかっている。

 結婚式からふた月ほどしてやっと、夫の三春倖が海外出張に発ち、美砂は朝比奈月菜との逢瀬を持つことが出来た。

 「あたしさ、会社辞めるね。ごめん」

 見つめ合った。見つめ合ったまま言葉が出ない。今、その言葉を発したのは美砂なのか朝比奈月菜なのか?

 「ふつう、あたしでしょ寿退社」かぶりを振って朝比奈月菜は美砂の言葉を切る。「だめ。あたしが思ってた以上に、みちゃみちゃ会社の人たちに愛されてるんだもの。ここにいると、あたしそのうちみちゃに跳びかかっていきそうなの」

 跳びかかって美砂を殺してしまいそうなの、だろうか。久しぶりに時間を忘れて、朝比奈月菜が相手だからこその快楽に浸る。同時に、心の隅で三春倖への罪悪感も感じる。

 このまま、こうしてときおりの逢瀬以外は顔を合わせることのない生活が続けば、三春倖に対する罪悪感はどんどん大きくなってゆくばかりなんじゃないか。あたしの心の中のバランスが、大きく三春倖に傾いてしまうのではないか。

 あたしが欲しているのは、どっちなんだ。どうしたらそれを知ることが出来るんだ。両方を欲しい、と子どものように両の手に握りしめて、それでいいわけない。なのに、三春倖に気持ちが向けば苦しくて、朝比奈月菜に気持ちが戻ればまた苦しい。

 「朝比奈、いつ、女が好きって気づいたの」

「小さい頃から、最初から。おままごとだとか、お人形さんで遊ぶとき、普通は自分と、お友達とか兄弟とか、そんで彼氏とか夫とかパパとか、男の子も登場するじゃん。妄想オナニーの原点ってゆーか、さ」

 胸から脇の下にかけてよだれで好き、と書きつつ、美砂は朝比奈月菜の震えるカラダが愛おしくて、それゆえ切ないんだなぁ、などと思っている。

 「あたし、記憶にある限り、ひとり遊びの時、男の子登場したことないの。友達んちいってシルバニアで遊んだとき、あ、みんなはボーイフレンドとかパパとか出てくんだ、知ってびっくりした。あたしは、そのポジションにはセーラーマーキュリーだったりキューティーハニーだったり、だから。そんで、高1の時、いっこ上の先輩に告られた」

「やった?」

「うん。すっげーよくって、自分でしてる場合じゃねな、こりゃと思って、で、ああ、あたし、レズビアンなんだって」ころころと笑う、朝比奈月菜。そのなめらかな肌を美砂のよだれでべちょべちょにすると、少しすると吸い込んですべすべになり、美砂のにおいと朝比奈月菜のにおいが混ざり合って、くさいのだが好きだ。

 「あたしは?」

「実はさ、面接の時、みちゃが案内してくれたの。覚えてる?あたしひとめ惚れ。この人とやりたいって、みちゃのあとついていきながらお尻を撫でる妄想してた」ふたりして笑う。「オヤジかよ」「でさ、5月24日の朝、髪アップにするから手伝ってって言われて、みちゃの後ろに立って三つ編みしたの」

「コンベンションセンターに急に社長同行になった時だね」

「みちゃのうなじ眺めながら、触りたくて触りたくて、あー、このほくろたどってみちゃのカラダ探検したいって、ひとりでうるうるんなって、そりゃーもうたぁいへんでした、自分抑えてへーぜんとしてるのが」ひとみを潤ませて、美砂のうなじのほくろに欲情している朝比奈月菜。想像して美砂はまた切なくて、朝比奈月菜のカラダを抱きしめた。

 「朝比奈、いいこ」

「あさひな厭。いちどでいいから、るなちんって呼んで」

「や。あたしには、ルナじゃなくってアサヒナだから」ブウ、とくちびるを尖らせて抗議する朝比奈月菜。

「みちゃ、こんなあたしを、それでもまだ、いい?」言いながら朝比奈月菜の指先が、美砂の髪を漉く。

 クラシックのコンピアルバムがBGMに流れていたのだが、このタイミングでジャジャジャジャーン、と「運命」がかかった。

 

「あたし、薄幸秘書室、美砂だから。運命は二股に苦しめって事かな、きっと」



 朝比奈月菜が退職すると、入れ替わって控えめな少女少女した容姿の女性が入ってきた。モリチエは森智恵と書く、平凡な子だ。

 美砂は薄幸秘書室から、人妻秘書室などと呼ぶ者もあらわれたものの、結婚してもなお社内外で男女問わず人気を保っていた。

 特に若手の女子社員には、「旦那さんに、若手同士の合コンセッティングしてってお願いしてくださいよう」だの「そこはかとないお色気のつくり方、伝授してくださいよう」だの、「ここは秘書室です。保健室ではありません」という貼り紙をしたいほど、誰かしらが居座っているようになった。

 秘書室は、美砂と森智恵のふたりでまわしているのだが、森智恵が新人ということもあり、美砂が社長やら役員やらに同行出張することが多くなった。朝比奈月菜が明るく派手目な印象の秘書だとすれば、美砂は落ち着いて古風な印象を与える。一年間、対照的な二人を見てきた役員たちからすると、森智恵は地味ということか。半年が過ぎても同行の指名は美砂が多かった。

 結婚して一年が過ぎて、美砂は妊娠した。この頃、夫の三春倖は仕事が忙しく、美砂とのあいだもぎくしゃくしがちだった。

 だから、ではないが、朝比奈月菜がとても喜んでくれたのが美砂にはとても嬉しかった。

 「だって、あたしはみちゃを孕ませられないもん」そう言って明るく笑う朝比奈月菜。「みちゃが三春倖だの言い始めたとき、あたしにペニスがついてりゃ腹ボテにしてやるのにって、悔しかった」「竿だけじゃダメでしょ、睾丸とかもなくちゃ」けらけらとひとしきり笑ったあと、朝比奈月菜は美砂のおなかを撫でる。「いいなあ。あたしも妊娠したい」

 初めて三春家に遊びに来た日、朝比奈月菜を見た夫の三春倖は、とても驚いていた。「君たちが、同僚というだけではなくプライベートでも友達とは知らなかった」

 ただ、つわりに苦しむ美砂を心配して、毎日のように仕事帰りに立ち寄る朝比奈月菜が、よもや浮気相手、であることは想像すらつかない様子の三春倖だった。



ときに夫の目を盗んでセックスする事すらあるのに、朝比奈月菜は美砂の兄弟であるかのように振る舞う。美砂の母がほぼ音信不通なので、三春倖としては疎ましくもありがたい、といったところか。

 爆弾を秘め宿した三角関係の中で、美砂は女の子を出産した。

 美砂が産休、続けて一年間の育休に入っているあいだ、美砂の替わりに秘書室に入社したのは朝比奈月菜だった。

 「なんか、転職先がもうひとつでさ、ここの総務部長に相談したら戻って来いって」

 そのこだわりのない開かれた明るさが朝比奈月菜の持ち味で、秘書としての能力は疑いなく美砂以上で、役員受け、お得意様受けもいい、会社にしたら渡りに船だろう。

 しかし、森智恵は?「あのこは、あまり社交的じゃないなー、ただ書類作成書類整理なんかはあたしみたいに雑じゃないからなぁ」なるほど、電話応対の良さなんかも含め、美砂よりも朝比奈月菜とは良好なペア相性なのかもしれない。

 初めての育児にノイローゼになりそうな美砂だが、朝比奈月菜がいてくれて本当に心強い思いだ。実母に頼れず、三春倖の母も高齢で頼れないなかで、姉がふたりの子持ちだから赤ん坊慣れしている、という朝比奈月菜が世話を焼いてくれる。でなければ、完全なワンオペ育児に我が子を手にかけていたかもしれないと、美砂は感謝しきりだ。

 「ありがと。朝比奈のおかげでわたしも華乃香も生きてる」

「華乃ちゃんはあたしとみちゃの子だもん」


 だが。

 すべて思い通りに行っていたのは、華乃香が一歳になる頃までだった。ある日、使いかけのカラーリップクリームが三春倖のスーツのポケットに入っていた。ある日にはアイブロウペンシル。ある日はマスカラ。

 これは、明らかな、浮気相手のオンナからの宣戦布告ではないか。三春倖に女装癖でもあれば別だが。

 問い詰めるべきか否か。

 そんな悩みはすぐに朝比奈月菜に見つけられて問いただされて白状させられてしまう。

 「もうちょっと待って。もっと、浮気が抜き差しならなくなってから」朝比奈月菜の表情は、心配している風でもあり面白がっている風でもあり、腹を立てている風でもある。

 出張から戻った三春倖のスーツのポケットからは、クリニークのルージュが出てきた。ところが、朝比奈月菜は問い詰めるな、と言う。

 浮気調査を探偵事務所に頼んで確実な証拠を押さえてから、という。「だってさ、しらを切ろうとするなら、できるよ」「でも、口紅だよ?」ふふん、と鼻をならして腕組をして美砂を三白眼で突きはなす朝比奈月菜。

「せっかく相手のオンナが匂わせてんだよ?あたしここよって。もう少し泳がせてどう出るか見なくちゃでしょ?そのあいだに、こっちは確実な証拠、つかまなきゃ」

 美砂の手を取り引き寄せて両の手でキュッと包み込んで頬を寄せ、目を伏せる朝比奈月菜。

 「楽しんでる?」美砂はいくばくかの形にならない疑念を、その朝比奈月菜の表情に感じとる。心の中が見知らぬ何かと呼応して波が立つ。波の振幅にあわせて鳥肌が立つ。

 気持ちが沈んで苛立ちさえしている美砂にくらべ能天気に見える朝比奈月菜。「え?やあだ、そうじゃなくて三春倖も妻が妊娠出産でフツーに浮気する男だったんだなあって」

 なんだか女性誌やらでよく見かける典型的な浮気のパターン、なのは確かだ。ただ、三春倖に感じた誠実さはフェイクだったのかと思うと、読み切れない私の目が節穴だったのか、と、ただただ悲しい。

 「みちゃみちゃ、いいから今は心配すんな。あたしが華乃香とみちゃにとって最善を選んであげる」「朝比奈がいてくれてよかった」

 美砂のため息を引きとる様に朝比奈月菜もため息をつくと、笑いながら美砂のカラダをマッサージし始める。育児疲れから、ストンっと眠りに落ちてしまう美砂だった。



 三春倖の浮気相手の女性から、さらに四つの宣戦布告が届いてから、探偵事務所の報告を受けた。

 相手の女性は28歳独身、三春倖の営業先の社員、平均して週2回会っていること、などに加えて、三春倖とラブホテル前で路上キスを交わしている写真などもあった。

 「朝比奈、年上だ」「そうか。この女と三春さん同い年か。みちゃ、案外深いかもね、こいつと三春さんの付き合い」

 不思議に嫉妬心がわきおこる。それを不思議と感じるのは、美砂の心の温度が低いのに嫉妬のような熱量のある感情が入り込んできたからだ。

 このとき、美砂は朝比奈月菜と確認しておくべきだったのだ。今にして思えば。だが、ふたりとも自分の思惑が相手とずれている、ということを想像していなかった。



 探偵事務所の報告を前に、美砂は三春倖と対峙する。

 「これは、どういうことですか、倖さんのスーツのポケットに入っていたものです」そう言って美砂は宣戦布告の品々をひとつひとつ、テーブルの上に並べていった。もちろん、三春倖の顔色を見ながら。

 割と平然としていた三春倖が顔色を変えたのは、スーツにつける社員証バッジを美砂が並べたときだった。三春倖は目を見開いてささっとピンバッジを手のひらに収めた。美砂は平然と品を並べ続けて、並べ終わると冷めた視線を三春倖に向けて言った。

 「そのバッジ、える・ぷろだくしょんですよね?える・ぷろだくしょんの多那珂綾香。多那珂綾香さんでしょ?」

「すまない」即座に謝る三春倖。「その通りだ。多那珂綾香、多那珂綾香とは、実は美砂さんと一緒になる前からで、結婚で一度は切れたのだけど、また」美砂は感情を殺してずっと見つめたままだ。「どうも腐れ縁で。愚痴こぼしの相手だったもんで、また、会ってしまって」

 視線を美砂に向け、美砂の視線に目をそらすと、三春倖はピンバッジをテーブルに戻した。

 美砂は男性経験が少ないから、三春倖のこの態度が誠実なのか否か、判断しかねる。JKお散歩のアルバイトをしてた頃相手をした男性たちは、基本、美砂とあわよくばセックスまで持ち込みたい、と考えている輩だ。それはそれでストレートでわかりやすい。しかし、三春倖は何故、多那珂綾香と会わなければならなかったのか。

 そして、こうして妻の美砂に対して宣戦布告してくる多那珂綾香の真意は何だ。三春倖と一緒になる約束でもあったのではないか。

 「多那珂綾香さんと、これからどうしますか」「いやもちろん」口から唾を飛ばす勢いで三春倖は声をあげる。「別れる、もう会わない」

 美砂は思わず苦笑する。「それは当たり前でしょ、あなたは華乃香の父親なのよ」三白眼で顔を寄せてにらみつける。「多那珂綾香にオトシマエをつけさせてください」

「オトシマエ」美砂の視線をうけて、三春倖の手が震えた。移ろう視線の先には美砂はない。「落とし前って」

「あなたを非難すれば、わたしたちの関係は終わってしまうでしょう?そのオンナ、多那珂綾香を悪者にしてつるし上げないと」

 額の汗に三春倖の緊張が伝わる。美砂はただ三春倖に、浮気ならそれでよし、華乃香の父親として家庭を続けていくために相手のオンナにけじめをつけさせてくれれば、今回は不問に付す、で、おわりにしたかったのだ。

「ああ、あ、会うってこと?あやに」「へえ、あやって呼んでんのね」動揺している三春倖。視線が意味不明に迷走し、見つめる美砂の視線と一瞬、交差すればなおさら震えていく。

 「会わせるわけねーだろってこと?」

「あ、いや、ただ、しかし、や、いや、それじゃ、ぐちゃぐちゃになる、かな、あやも、その、や、しかし」

 ああ、三春倖へもう、気持ちがない。ここでやっと、認めることが出来た。気持ちはない。だが、華乃香のことを考えてやらなくちゃ。

 「結婚のお約束でもあったんでしょう、多那珂綾香と」

慌ててかぶりを振る三春倖。三白眼で突きはなす美砂。

 「いやいや、そんな。ただ」「じゃあ、多那珂綾香と会うわ、で、正妻はわたしですから、浮気のお味はいかがですかって尋ねてみます」

 すぐに何とこたえてこの場をしのごうか、思案をしつつ手を伸ばしてきて美砂の手をゆっくりと包み込む三春倖。懐柔しようというわけ?「だけどあれかしら、多那珂綾香のが先に倖さんとデキてたわけだから、優先権を主張するかしら」

 血の気の引いたような三春倖の表情を見て、ちょっと冷静さを欠いていらぬ深追いをしてしまった、と美砂は感じた。

 別れよう、というわけではない。華乃香の幸せを考えて父親らしくして欲しい、そう思っただけだ。引き戻さなければ。

 「とにかく、落とし前を付けさせてほしいの。倖さんがもう浮気をしませんじゃあなくって、多那珂綾香がもう浮気しません、でなければわたしはいつまでも多那珂綾香の影に不安を抱き続けることになるでしょう?」

 しかし、三春倖の顔に一抹の躊躇が宿る。それを見て美砂は小さな絶望を胸に灯しながら、それでも繰り返した。

「多那珂綾香に会う会わないではなくて、それが謝るかどうかだって言ってるの」美砂の言葉にさらに暗くなる三春倖。「おかしなことは、わたし言ってないでしょ?」

「はい」三春倖がうなづいた。



 多那珂綾香は予想に反して美人でもなんでもなかった。浅黒い肌をした小太りの女性だった。肩にやっと届く長さの髪は乱雑にカールしていて顔に覆いかぶさっていることもあって、第一印象は暗くて陰気なマイナスの印象しかない。

 「まぶしいです」

 一瞬、理解に時間がかかった。「眩しい?」

「そう。あたしと違って」なに言ってんだコイツ、という表情を美砂は浮かべてしまったろうか。メイベリンだのクリニークだの化粧品をポケットに突っ込んだくせにそれらを使っている気配は微塵もない、化粧っ気のない顔をした、覇気の感じられない女。

 何故、多那珂綾香は三春倖を交えずふたりきりで会おう、と言い出したのだろう。美砂はこの女と会うことを朝比奈月菜にも言っていない。まさか暴力沙汰にはなるまいが、背中に何かひんやりとした予感を感じる。

 「ごめんなさい。だけど、一度だけ、あなたに会いたかった」

 顔にかぶる髪の毛の下の目の表情が読み取れず、女の真意を推し量れず、美砂は素直に戸惑いを表に出した。「はい、ですから、ここへひとりで参りました。何故、差しでなければいけないのでしょう」あえて首も傾げるが、あごを突き出してやぶにらみにする。

 三白眼で睨まれても、多那珂綾香は動じない。

 「倖のポケットに」言いかけてひとさまの夫を呼び棄てたことに気付いたか言い直し、「倖さんのポケットに色々入れたのは、こうしてお会いしたかったからなんです。ごめんなさい」

 そこまで言うと、目を伏せて口を一文字につむぐ多那珂綾香。

 「何故ふたりきりで会わなくちゃなの」美砂の問いに顔をあげる多那珂綾香。

美砂を見つめる瞳が得体のしれないちからを感じさせる強さを持つ。

 本性、出してきたか?

「あたしはこんなだから、とても、あなたのようなひとがまぶしい。うらやましい」

 だから何だよ、と声に出して言いたくなる。それを飲み込んで美砂は続きをうながした。あたしはこんなだから、って、なんだよ。ちょっと地味な風采かも知らんが、それよりも自分をよく見せたいという努力がなんも感じられないほうが問題だろ。

 「倖、さんとあなたとお子さんの家庭を壊したくないです」「じゃなんで浮気とわかっててうちのひとと会う?」ついたたみかけた美砂に腰が引けた多那珂綾香。美砂は口をつぐみ、あごで催促した。

 「探偵さんか何かに、調べさせたでしょう?あたしと倖は部落、被差別部落の出身なんです」

 被差別部落、という言葉がすぐには取り込めなくて美砂は戸惑ったが、多那珂綾香には相手の戸惑いはよくあることのようで、一拍置いた。

 「東京にいると、部落差別って感じないかもしれません。けど、現実にあたしや倖の生まれた集落につながる道路はいまだに舗装されてないし、あたしのうちがある集落は小川の対岸だけど橋もないです。車を対岸に停めて丸木橋を渡ります。町役場には、なくそう!部落差別、とかポスターも貼ってありますよ」

 美砂は自分を勝気な女と思ったことはないが、このときは何かがはじけた。「それ、浮気の理由じゃない」

 押し黙って、多那珂綾香は上目づかいに美砂を見る。「ごめんなさい。そうですよね、はい。・・・ごめんなさい。ただ、あたし、他に部落出身者知らなくて。つらくて、倖を頼ってしまいました、ごめんなさい」

 視線を脇に外した多那珂綾香を見て、あ、と美砂はつぶやく。このかんじ、朝比奈月菜がレズビアンであることを人に知られないようにしていたが故の、あのどこか卑屈な感じの笑み、あれと同じなんだ。

 マイノリティは常にこうした卑屈さを内包して生きてきたのか。美砂は、朝比奈月菜の原罪とでも言えそうな重荷を共に背負うことが出来ず、申し訳なく感じたものだった。

 「東京で、お別れしたあと、倖が結婚するんだって言って、お別れしたあと、職場であったんです、差別。印があるんですよ、あたしたちの地方には部落出身者の手の甲に、昭和になっても入れ墨させられた。部落のシルシ。マーク。部落ごとにちょっと違う、わかる人にはわかるシルシ」

多那珂綾香がごくりとつばを飲み込む。

「そのあたしの部落のシルシが、あたしの机に書いてあって、そこから嫌がらせが突然始まって。けど、仕事は気に入っていて辞めたくなくて、けど辛くて。倖を、頼ってしまいました。ほんとにごめんなさい。倖から、妻になる美砂さんは、どんな横柄な客にも柔らかく対応するひとって、聞いてて。同僚の、あの、言葉悪いけどぶつぶつがいっぱいある気持ち悪い感じの方も、美砂さんはほかの会社の受付と違って、いつでもあったかく笑ってくれて、って、べた褒めでした」ああ、オサンポカ商事の舞原さんね。あばたかニキビか、手の甲にまであって、気にしてらしてかわいそうで。けど、JKお散歩してた頃、そういう人とだって、手をつないだよ、優しくすればリピーターさんになってオプおごってくれるし。「だから美砂さんには、直に、話すだけ話してみたいって思って」

 うーん、あたしの負けか。

 美砂はため息をゆっくりついて、多那珂綾香に微笑んだ。

 「負けました。勇気、出したね。すごいね」心のなかであらん限りの悪態をつき罵詈雑言をまき散らしながら美砂は微笑み続ける。「今回のこと、目をつぶります。手紙を書いてください、わたしに。謝罪文。二度と会いませんと。形としてはそれで納得させたようにみせます、倖に」

 美砂を見つめていた多那珂綾香がうおんうおん、と、唸り声のような悲鳴を上げて泣き出した。「これからも、私に気づかれないように、倖に会ってください。でも、いいですか、赦しはしません。あなたが憎いですよ、忘れないですよ、いい?」

 はあ、ともうひとつため息をついて美砂は天を仰いだ。

「ただ、こうして私が知ってしまった以上、肉体関係は無しにしてください。であれば、いいですよ、目をつむりましょう」



 しかし、朝比奈月菜は、三春倖に直に探偵事務所の報告書を突きつけ詰め寄ったのだった。

 しかも、直情的な朝比奈月菜は、三春倖に何故夫婦のあいだの事に君がそうまで立ち入るのか、と問われて、美砂とあたしは恋人どうしだ、と答えてしまったのだ。

 「どういうことか、説明してよ美砂」

 ああ、まったく、朝比奈月菜も余計なことをしてくれたもんだ、美砂は隣に座っている朝比奈月菜に抗議の流し目を送る。

 「朝比奈月菜とは、倖さんに出会う前から同僚以上の友達なの。ただ、わかれてない、続いてるだけ」これじゃダメか、そうは思いつつ、美砂は続けた。「男女の仲、じゃあないから。もちろん、あなたを愛しています。その気持ちとは、ちがうものなの。友情の、強い友情のカタチ。わたしは、レズビアンではないわ」ああ、これじゃ朝比奈月菜を傷つけてしまう。よくない。「私は多那珂綾香さんを赦したわよ、あなたは単純に前カノとよりを戻しただけでしょう、私と朝比奈月菜は友情なの」

 ああ、こんなじゃだめだ、口を開くたび悪くなる。美砂は口をつぐんで三春倖の出方を見守った。だが口を開いたのは朝比奈月菜が先だった。

 「あたしは愛しているもの。美砂を恋人として愛しているもの、ほんとは三春さんとだって結婚させたくなかったわ」

「結局、美砂と朝比奈さんのあいだにだって、肉体関係があるわけだろう?であれば、僕が多那珂綾香とよりを戻してしまった事と同じだよね」

「同じじゃない」そう言って食ってかかろうかという朝比奈月菜を手で制して美砂は微笑んだ。

 「これからの話をしましょう。倖さん、倖さんはどうしたいですか。私と別れたいですか。続けたいですか」言い終わらないうちに朝比奈月菜が美砂に向き直って手を握る。「あたしは別れていいと思う。あたしとふたりで華乃香を育てればいいんだよ」

 思わず朝比奈月菜の顔をじっと見てその瞳を見つめる。「本気で言ってる?」

 朝比奈月菜の目はまっすぐに美砂を射抜いてぶれることもない。ああ、そうだったんだ、それが朝比奈月菜の願いだったんだね。レズビアンの夫婦として子どもを持ちたかったんだな。

 気づいてやれなくてごめんね朝比奈。

ごめんね朝比奈。

 「私は倖さんと別れるつもりはないわ。あなたと一緒に華乃香を育てていくつもりよ。そのためなら、あなたと多那珂綾香を赦すわ。朝比奈月菜と恋人であることもやめるわ。あなたはどうなの、どうしたいと思っているの」低い声でできる限り感情を押し殺した言い方をしてみた。

「なんでだよなんであたしが消されなくちゃいけないの」

 美砂はそれでもあえて朝比奈月菜を見ずに三春倖を正面切って見つめる。「どうしたいの」

 三春倖が落ち着きなく視線を泳がせる。「別れるつもりはない」「じゃあ、私と朝比奈月菜のことも許してもらわなくちゃ、だわ」ふう、とひとつ吐息をもらす。柔らかく笑みをつくり三つ数を数える、目を大きく見開いてできる限りの目ちからで見つめる。「いや、しかしだ、」ためらいを見せた三春倖にもう一押したたみかける。

「先の話をしましょう」

 ひゃあ、というかすれた悲鳴を上げる朝比奈月菜。「あたしは?あたしはどうなっちゃうの。美砂、あたしを棄てるの?」

 冷静になれよ朝比奈月菜、と心のなかでとなえて一瞥するだけで三春倖を見つめ続ける。三春倖は美砂と朝比奈月菜とを交互に見比べて、何を思うのか両の手で顔を覆った。

 沈黙のあいだも朝比奈月菜は美砂の手をつかんで痛いほど握りしめている。

 エアコンの小さな送風音、壁の時計の機械音、遠く窓の外から車のクラクション、マンションの廊下に響いている足音話し声、そして、突然の華乃香の泣き声。

 ゆっくり朝比奈月菜の手をほどいて、美砂は立ち上がった。華乃香を寝かしつけている部屋へ一歩踏み出したとき、三春倖が美砂の手をつかんだ。

「わかった。美砂、お互いの事を詮索するのはやめよう。ただただ、華乃香の幸せをこそ、僕たちは考えてやらなきゃだもんな」その手を離して美砂を送り出しつつ「忘れよう、これまでの事は」そう言って美砂に微笑む三春倖。

 美砂は笑みを返して、華乃香をあやしに行った。



 「憎い?朝比奈はわたしの事恨んでる?」

蒼ざめた顔色の優れない朝比奈月菜。美砂を見ずに視線を脇に泳がせ、かぶりを振ってぐすぐすと鼻をならす。

 「わかってた。だってみちゃはビアンじゃないから。だから男と結婚したし」泣きはらして目が赤い。つられて泣いてしまいそうになる美砂。「ただ、ほんとにあたし、あたしはみちゃとふたりで華乃香を育てたかったの」

 強い雨の音に窓に目をやるふたり。

 美砂の髪も毛先がはねてまとまりに欠くが、朝比奈月菜ときたら櫛をいれていないのか、びょんびょんと跳ね散らかしてメデゥーサのようだ。

「忘れないで。あたしを憎んでもいいよ、三春倖と別れてしまえって、本気で思っていたから」

 朝比奈月菜は見覚えのある探偵事務所の封筒とは別の、これも探偵事務所の封筒をテーブルに置いた。中から報告書を取り出した。

 「あたし、みちゃが三春さんと付き合いだしていくらもしない頃、調べさせて、知ってたんだよ多那珂綾香の存在。で、華乃香が生まれて、あたし、絶対みちゃと華乃香が欲しかった。だから」

朝比奈月菜は立ち上がって窓際へ行く、振り返る、見開かれたひとみがうちに宿るなにがしかの決意を伝えてくる。「だから、多那珂綾香が自分でやったんじゃないの。あたしがやらせたの。三春さんのポケットに口紅とか入れて、自分という存在を、美砂に気付かせろって」

 美砂をかすかに笑みをもって見つめる朝比奈月菜。だがそれは、自嘲の笑みだったろうか。「別れさせて、あたしが、みちゃと、華乃香と、そう願ったの」笑い声を響かせる、洟をすする。「愛してる、みちゃ、ほんとよ、だからあたしを忘れないで、憎んでいいよ、悪者にしていいから、忘れないで朝比奈月菜を」

「忘れるわけないだろ、朝比奈」その言葉を言い終わらないうちに朝比奈月菜はころころと笑い声をあげた。涙を指で拭いながら泣き笑いの表情で床に崩れ、美砂を見上げる。

 「薄幸秘書室美砂、だったのに。あんなにはかなげで頼りなかったのに。いま、みちゃってば、強い」

 愛らしくて切なくて、美砂は顔を寄せて舌を朝比奈月菜の鼻先に触れさせた。はなと涙でしょっぱい。身動きのできないまま、このままいっそ、強い雨に流されて消えてしまえばいい、そんな乙女心のような全否定の動きに落ちてしまいそうになる。

 犬のように朝比奈月菜の顔を二度三度と舐めた。

 「今から、死がふたりを別つその刻まで。美砂と朝比奈は交わることのない恋人同士だ」

 朝比奈月菜が目を伏せて口をへの字にし、わずかにこらえたあと、美砂に抱きついて大きな声で泣き始めた。



 それから、美砂は朝比奈月菜に逢っていない。



                    終

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