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いろんな人が壊れやすい「幸せ」の上に立たされてて、その壊れやすさを認めたくない

いろんな人が壊れやすい「幸せ」の上に立たされてて、その壊れやすさを認めたくないから、それを指摘されると感情的に怒り出す。
全てのものは壊れるからこそ、壊れやすい「幸せ」に執着してる人ほど心に余裕がない。
そんな「幸せ」が大切なもののどこに分類するのか、考える機会が必要だと思う。

なんてことを考えた。

壊れやすい幸せって、例えば、お金とかモノとか、美味しい食べ物とか。そんな感じ。これら全てに共通するのはいつ無くなってもおかしくないってことかな。まぁ、この世界にあるモノ全てはいつ無くなってもおかしくないんだけど、さっき挙げた欲望たちは、無くなる可能性が高いってこと。

お金なんて使ってしまえば消えるし、盗まれれば無くなるし。モノは使えば壊れる。美味しい食べ物は食べれば無くなる。そんなものばかりに執着していると、人生をさらに自分で苦しくしてないかなって。悲しさを増やしてるってこと。

僕は別に仏教信者じゃないけど、「悲しさの根源を減らすことが悟る方法の一歩」的な仏教にある考え方は現代社会の欲望まみれの人々を救うものだと思う。「いや、別に悟り目指してないし」ってみんな思うかもだけど、ただ、生き方の指標としてそういうのやってみるといいと思う。楽とか幸せを求めるなら、その逆を見て、悲しさの根源を減らす作業というのが必要だと思う。

逆にそんな悲しさがくるのにもかかわらず、それに執着しているということは、それを失うリスクとも常に戦っているということ。そうすると、心の余裕がそこにとられてしまう。

例えば、大切なシャツだから、汚れないようにしないとって思いながら、旅をする。これは結構しんどくなる。心では汚れないようにって思うところに注意がとられる。誰かが急に自分のシャツにコーヒーをこぼしたりしたら、鳥がふんをしたら怒る、イライラするなんて結果だろう。それを防ぎたいなら、そんないいシャツ、大切なシャツを着てくるべきではないだろう。

そんなんだったら最初からそんな壊れやすいものに、執着すべきではないのでは?という感じで、悲しさの根源を減らすのがいいんじゃないかな。

壊れやすい幸せに幸せ度を依存しすぎるからこそ、それが崩壊する危機との戦い、それを守らなければという感覚。そんなものが強くなり過ぎちゃっていないかな。壊れやすい幸せは、自分の幸せの中のどこに分類するのか、もっと見つめていく必要があると思うんだよね僕は。

さっきのシャツの話だったら。最初から壊れる可能性があるところになるべく持って行かないようにするし、そもそも、そんな大切なシャツより、旅での出会いとか突然の出来事を楽しめるくらいの心の余裕を持っていこうかなと思うわけで。シャツのために経験をそごうなんて思わない。

僕にとって、シャツより経験のほうが自分のためになると思うから。経験のほうが、シャツより壊れやすい幸せじゃないから。そんな感じかな。

そう考えたら、経験って凄い宝だよね。死ぬまで持っていられるんだから。

こんな悲しさの根源を減らす考え方は宗教的とか言われることもあるカモだけど、哲学的でもあるんじゃないかなと思う。とだけ、宗教嫌いへのプラスチックの壁を建てておく。

とりあえず、壊れやすい幸せに執着してイライラして他人やもの、自分に迷惑するよりも、心に余裕を持ってもっと未来見て自分が楽になるために考えようよという話。




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