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ジャイナ教の条件的相対主義


こんにちは。トンてつクラブ部長、さとうひろしです。今回は、鄧析・プロタゴラス・ジャイナ教の相対主義を比較検討してみたいと思います。

相対主義
は、鄧析とプロタゴラスにおいては、「xはaであり、かつxは-aでもある」(x=a、x=-a)と定式化できそうです。といっても、ある種の条件を満たせば、の話であるかもしれません。

鄧析でいえば、その相対主義は両可の説となります。両可の説とは、「有利な取引(x)が、利害の反する売り手(a)と買い手(-a)のどちらにも成立する」というものであり、その意味では、「x=aであり、かつx=-aでもある」となります。ところが、より正確に言えば、売り手も買い手も一人であって、のみならず対象となる商品が一点である場合に妥当するものになります。鄧析の両可の説は、市場の取引全般に通用する普遍的原理ではないのです。(詳細は、鄧析の「両可の説」に関する私の動画またはnoteをご覧あれ)

プロタゴラスの相対主義(それをプラトンがソクラテスをして語らしめたのですが)も条件付きです。それは「同じ一つの物(x)が二人の人間に対して、同時に善(a)にもなれば悪(-a)にもなる」というものです。同じ五月の微風であったとしても、健康な人には心地よいので善であるのでしょうが、病人には悪寒をもたらすので悪となるのです。

しかし、これも二人の人間のうち一方は病人であり、もう一方が健康人の場合に適切となるのであって、無条件的ではないのです。どちらも病気、あるいはどちらも健康だったとしたら、風はどちらにとっても悪であり、あるいは善となったでしょう。二人の人間が異なる身体条件を持っている場合に、プロタゴラスの相対主義は通用するのであり、この意味では、鄧析の相対主義もプロタゴラスの相対主義も、どちらも条件付きである、と言えるのかもしれません。

この相対主義の条件的性格を明らかにしたのが、ジャイナ教となります。ジャイナ教の論理を私なりに解釈すれば、こんな感じになるでしょうか。ある物について定義すれば、その物の一面を取り出して言語化し、他の諸々の面は無視することになります。なぜなら、いかなる物も多面的性格を持っているからであり、その一面だけを切り取って定義したところで、たかが知れているからです。

例えば、人間を二足歩行動物だと定義すれば、人間の万物の霊長たる知性は等閑に付すことになり、そうでなくて人間を理性的だと言えば、その二足歩行的性格は拾い上げられません。思い切って人間は二足歩行する理性的存在だ、とすればどうでしょうか。すると、人間の有する宗教心、道具を使うところ、積極的に遊ぶところなどが捨象されます。いかなる対象であれ、どんなふうに定義しようにも、どこかしら見捨てられてしまうのです。

だから、とジャイナ教は言うのですが、何らかの定義をする際には、「ある点では」といった限定を設けよ、と主張するのです。つまり、ある点では、人間は二足歩行する動物だ、あるいは、ある点では、人間は理性を有する動物だ、とすればいいのです。で、このような限定(または条件)をスヤード(syad)といい、こうして条件づけられた相対主義をスヤードバータ(syadvata)と言うのです。これがジャイナ教の相対主義であって、「ある点からすれば」、鄧析やプロタゴラスが無視した条件性を明るみに出した、と言えるのかもしれませんね。

※ここで用いた数式は飽くまである種の比喩とご理解下さいね。

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