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心的システムにおけるオートポーエーシス成立について

人間の心にもオートポーエーシスの形成が自我形成に寄与すると思われる。この点を近代文学を参考に検討しよう。ここで扱うのは、夏目漱石と太宰治である。両文学者の自我形成の軌跡はオートポーエーシスの成立と類比され得る。ルーマンが「社会システムのオートポーエーシス」(『自己言及について』の第1章)において指摘しながらも詳述しなかったところの「心的システム」におけるオートポーエーシスである。単純化して言えば、オートポーエーシスとは、何らかのシステムが閉鎖性・環境からの独立性・自律性などの特徴を獲得することによって成立する、ある種の閉鎖的自己言及体制である。心的システムにおけるオートポーエーシスとは、人間の心に自我がない状態にあってすぐに他人の言動に影響されてしまう状態から、人間の心に自我が形成され他人の言いなりにはならない独立した精神状態を確立することである、と思われる。

英国留学前の若い頃、漱石は「私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。」と悩んでいた。文学で身を立てようにも文学が分からない。ロンドンにまで留学しても分からない。どんなに書物を読んでも分からない。そして漱石は気づく、「文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだ」と。そして漱石は自分の現状を振り返る。自分は他人本位だったからダメだったのだ、と。他人本位とは、「自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指す」のであるが、「西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従して威張った」そうである。これに対して、漱石は不安を抱く。そして

たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売うけうりをすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢どひでない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。

と言う。いつしか漱石は自己本位という言葉を見出す。「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。…そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出してみたら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考え」ては、文芸評論に手を染めて失敗する(本人曰く、であるが)のだが、「しかしながら自己本位というその時得た私の考は依然としてつづいています。否年を経るに従ってだんだん強くなります。…自己が主で、他は賓であるという信念は、今日の私に非常の自信と安心を与えてくれました」とすら、発言するのである。

他人本位とは、人の意見に左右されて自分の意見がない状態であり、自己本位とは、自分なりに見識を持って他人の言いなりにならないことである。つまり、自己と他者との間に境界線を引いては内外の区別をして、外部からは必要なものは取り入れるが、不要なものは極力取り入れない態度を表す。これはまさしく心理的オートポーエーシスである。似た例は、太宰治の『人間失格』にも見られる。

主人公は友人から「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」と言われて気づく。

世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

そして主人公は、世間には実体なんぞない、あるのはただ個人だけであり、誰かが「世間が許さない」と言ったとすれば、その発言者が許さないだけであって、世間とは何の関係もないのだ、と考え出す。そして主人公は自分の人生に自信を持ち始めるのである。

その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。
 そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。シヅ子の言葉を借りて言えば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。

それまでは、世間が自分を責めると思えば震え上がっていたのであろうが、もう世間なんぞという人間の集合的実体はないと思っているので、いまや怖くも何ともないのである。それまでは世間の非難がすぐに主人公の心に入り込んでいたのであり、自分と世間とを分け隔てる壁がどこにもなかったのである。しかしいまや世間の正体が一人の個人に過ぎないと分かり、一人の人間たる主人公と、世間の代弁者を気取る一人の人間とが相対するだけであるので、壁の構築も容易なのである。こうして壁が出来上がると他人の非難も主人公の心に届かなくなり、自我が確立されるのである。かくして自分の人生に自信を得ることになるのである。これも一種の心的オートポーエーシスの形成過程であろうと思われる。

いまはこれ以上の分析はできないが、心的システムにおけるオートポーエーシスの形成過程も興味深いものである。

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