ゼノンの運動否定説
運動の意味を辞書などで調べると、以下のようになる。広辞苑では「物体が時間の経過につれて、その空間的位置を変えること」「広く化学変化・生物進化・社会発展・精神的展開などをも含めて、形態・性状・機能・意味などの変化一般」とあり、ブリタニカには「物体の位置が時間とともに変化すること」とある。これが我々の運動観念である。
しかし古代ギリシアでは運動観念は我々のとは異なる。アリストテレスは言う。運動するものはすべてあるものからあるものへと運動する、と(『自然学』第4巻第11章参照)。アリストテレスのいう運動は広辞苑の第二定義に近く、物理的というより哲学的であり、特に目的の観念が強い。というのも、あるものへと運動するのだから。さすが目的論者アリストテレスである。単に物体が動くだけでは運動とみなすには不十分なのだ。どこかへと向かいさらに到達しなければ運動とは言えぬのだ。
このようなことを理解した上で、我々はゼノンの運動否定説を検討すべきであろう。運動否定とはいうが、そもそも「運動」の概念からして彼らと我々とでは一致しないのだから。
さて、有名なアキレウスの論証でゼノンは言う。「最ものろい走者でも決して最も速い走者によって追いつかれることはないだろう。というのは前者がそこから出発した地点へ追手は先ず達しなければならない、従って足ののろい走者でも常にいくらか先に進んでいなければならないから」と(『初期ギリシア哲学者断片集』山本光雄訳編、岩波書店48頁)。
例えば、亀とアキレウスである。先にゆく亀に追いつこうとしてアキレウスが亀のいた地点に到るや亀は先に進んでいる。アキレウスがまた亀に追いつこうとして進むと亀はさらに先に進んでいる。これが延々と続くのでアキレウスは結局亀には追いつけぬ。だから、とゼノンは結論づけるのだが、運動はあり得ぬ、と。
然るに、アキレウスの有様をよく検討すると、この最速の男は亀に追いつこうとしてずっと走り続けているのだ。瞬時たりとも立ち止まってはおらぬ。故に、アキレウスの論証は運動否定説というより運動永遠説となる。何故なら、誰かに追いつこうとすれば、誰しも永遠に走り続けねばならぬゆえに。ゼノンと我々とでは運動の観念が異なるゆえに、ゼノンの運動否定説は我々にとっては運動肯定説に変貌するのだ。
トマス・クーンが古代ギリシアの諸観念を調べながら嘆息したのは、何故同じ用語を使いながらも、かくも意味が異なるのか、ということだった。我々はクーンの嘆息をここにもまた見出すのである。
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