見出し画像

アナクシマンドロスの古代的進化論

(※以前、古代の進化論については書いたのであるが、私の理解不十分により誤った箇所も少なからずあったので、こちらにて書き直した。)

アナクシマンドロスの「進化論」は、大昔の海中生物が陸上生物になり、そして人間へとなったことをいう。

「…最初の動物は湿ったもの(=水)のうちに刺の多い外皮に包まれて生じたが、歳をとった時に、乾いたもの(=土)の上にあがってきた。そしてまわりの外被が裂け落ちて、しばらくの間、今までとは変った生き方をした」

「…人間は魚のうちに生じ、その中でちょうど鮫のように育てられ、そして十分に自分で自分を助けることが出来るようになった時、初めてそこから出てきて、大地に取りついたのである。」

「…初めには人間は他の種類の動物から生まれたと言うが、それは、他の動物どもが直ぐに自分自身の力で食っていくのに、ただ人間だけが長期間の保育を必要とする。それゆえ初めのうちにもこのようなものであったならば、生きのびることは決してなかったろう、という考えにもとづいてなのである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』山本光雄訳編 断片28)

ここでは二つのことが述べられている。一つは、最初の動物は海中で生まれたこと、二つは、人間は最初は海中生物だったが、それから陸上へとあがって陸上生物になって、そしてから人間となったこと、である。ラッセルも言うように、アナクシマンドロスのこの考え方は進化論でもあるとも言えそうである。

進化はふつう次のように定義される。

「長大な時間経過に伴い生物が変化していくこと」
「生物の形質(形態・生理・行動など)が生息する環境に、より適合したものになる、既存の種から新しい種が形成される、単純な原始生物から複雑多様なものへ変化する、などがその変化の内容」(日本大百科全書ニッポニカ「進化」より)

以上を参考に考えてみれば、ダーウィンの本の題名は『種の起源』であることからもわかるように、進化の基本単位は「種」である。その発生は系統発生(種の変化)であって個体発生(個体の変化)ではない。しかしながら、アナクシマンドロスの(ラッセルのいうところの)「進化」論はどうであろうか。「…最初の動物は湿ったもの(=水)のうちに刺の多い外皮に包まれて生じたが、歳をとった時に、乾いたもの(=土)の上にあがってきた。そしてまわりの外被が裂け落ちて、しばらくの間、今までとは変った生き方をした」という記述は、「歳をとった時に」という言葉からもわかるように、生物の一個体の話である。「…人間は魚のうちに生じ、その中でちょうど鮫のように育てられ、そして十分に自分で自分を助けることが出来るようになった時、初めてそこから出てきて、大地に取りついたのである。」という記述は、人間の個体の話であるのか、それとも種の話であるのか、いささか不明瞭であるようにも思われる。しかし最初の発言との整合性を考えると、種ではなくて個体の話であるように思われる。

そもそも何故人間が始めは海中生物だったのかといえば、人間の子どもについて考えてみればわかる。最初の人間が赤ん坊だった頃を想像せられたし。いかにも無力であって、しかも最初の人類の話であるので、庇護すべき親はいないのである。赤ん坊は生存なんぞできなかったであろう。だから、最初の人間が生存するためには、何らかの安全な環境にいたはずなのであり、それが、アナクシマンドロスによれば、海中だったのであり、しかも魚の体内にいて鮫のように育てられたのである(外敵はもはや襲うことができないからである)。そして充分に成長して自分で自分を守れるようになった後に上陸したのであり、そこで繁殖して、今度は人間の親が子供を安全に守り育てるようになったのである。

これがアナクシマンドロスの想定なのである。生物として形態・環境・行動は変化しているが〔魚から人間へ〕、その変化の詳細なメカニズムは何ら述べられていない。種としての形態・環境・行動の変化の話につながってはいるが、それを特定の個体の形態・環境・行動の変化という話に限定している。一代限りで変化は終息しているので突然変異の概念であろうが、その記述はいかにも不十分ではあるまいか。進化論の端緒であるかもしれないが、進化論と言っていいのであろうか。

そう考えると、アナクシマンドロス説を進化論とみなすことには少なからず躊躇を覚えざるを得ない。なるほど魚が人間になったと述べているので進化といえば進化であるが、しかし彼の記述を読めば、ある海中生物が陸上に上がって暮らすようになったとあるだけで、そこで焦点が当てられているのは個体であって種ではないのである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?