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クセノパネス


・ネットワーク形成
あるシステムがあるとしたら、そのシステムを構成する全要素が何らかの形で交流を結んでいる。そうでなければ、そのシステムはシステムと呼ぶに値しない。

例えば、二人の男(太郎と次郎)が何らかの事情で無人島に漂着したとする。無人島の東部は山で西部は湿地になっており、その間を深い森が隔てているとする。太郎は東部の山の上で何とか日々を過ごし、次郎は西部の湿地地帯で飢えをしのいでいる。互いは互いを知らず、間接的にも何ら接点がない。この状態では、この無人島はシステムを形成してはいない。

やがて次郎は肥沃な土地を利用して簡単な果物を植え出した。すると次郎の吐き出す種を島の鳥が口に含んで、山の上の巣にいる鳥の子どもたちに持って行くようになった。ところが鳥は何粒か山の上に落とし、それを太郎が拾って同じく果物を育てるようになった。太郎は、尾籠な話で恐縮であるが、山の上を流れる清流に排出物を垂れ流し、川の下流で次郎はその川の水を利用して果物を育てるのだが、気づかずに排出物を肥料として活用することになった。かくして、太郎と次郎は互いの存在にまったく気づかないながらも、果物の栽培と摂取とを通して間接的に交流を結ぶことになり、そうなるとこの無人島は一つのシステムとして成立することになるのである。

このように、システムがシステムとして成立するためには、システムを構成する各要素がネットワークを形成する必要がある。システムの成立過程とはすなわちネットワーク形成の過程でもある。このネットワーク形成過程が、ソクラテス以前の自然哲学者諸子の思想体系の構築過程に見られる。より正確に言えば、ミレトス学派の世界観内部において見られ、同時にミレトス学派とエレア学派の間のネットワーク形成も見られるのである。前者においてはアナクシメネスがその主役であり、後者においてはクセノパネスがその橋渡しとなるのである。

・アナクシメネスにおけるネットワーク形成
アナクシメネスはミレトス学派の世界観内部においてネットワーク形成に寄与した。具体的に言えば、タレスにおけるネットワークの不備を修正したのである。タレスは元素を水としたが、水から万物が形成される過程が不明瞭であった。タレスの自然哲学体系の内部においては、一方に水があり、他方に万物があるとしても、両者を結ぶメカニズムがいまひとつわかりにくいものであった。私の言葉でいえば、概念地図上の二点を結ぶ経路が不確定なのである。

で、タレスの孫弟子にあたるアナクシメネスがこの経路を明瞭化したのである。アナクシメネスは元素を空気としたが、空気から万物が形成されるメカニズムは詳述されている。

「この空気は存在によって稀薄さと濃厚さの相違がある。そうしてこれは薄くなると、火になるが、濃くなると、風になり、それから雲になり、さらにもっと濃くなると、水になり、その次に、土、またその次に石になって、残りのものはこれらのものから生ずる。」(『アリストテレス自然学の注釈』シンプリキウス)[1]

ここには四元素である火、水、土もすべて巧みに組み込まれている。ここでミレトス学派の世界観がシステムとして十全に機能することになった。

・クセノパネスにおけるネットワーク形成
さて、クセノパネスであるが、彼はエレア学派に通じる思想を開陳する。彼は人格神の概念を批判する。詩人たちが描く神々はずる賢いのであるが、真の神はそんなことはあり得ない。それに神々が生れると詩人たちは言うが、そんなことにすれば、やがて神々は死ぬことになるであろうが、それは神の本性に反するのである。そもそも神が人格を有するという着想自体が過ちなのである。神は非物体的なるものであり、従って非肉体的なるものであり、物質とも肉体とも無縁であれば、滅びることもないのである。さらに言えば、もし神が宇宙の一事物であれば、諸行無常の法則によっていつかは滅することになるであろうが、然るに神が不滅であるということは、神は一事物なんぞではなくて、むしろ宇宙それ自体なのであり、そうすることによって不滅なる地位を獲得するのである(彼は宇宙それ自体の滅亡については語っていない)。クセノパネスの言葉を見てみよう。

「ホメロスとヘシオドスとは人間のもとでは軽蔑と非難の的になる一切のこと——盗むこと、姦通すること、互に騙し合うことを神々に帰した。」(『諸学者論駁』セクストス・エムペリコイ)[1]

つまり、クセノパネスは詩人たちは神々が盗み、姦通し、互いに騙し合う場面を描いていると言って非難しているのである。真の神はそんなことはしないのである。

「神々が生れるものだ、と主張する輩は、〔神々が〕死ぬものだ、と言う者どもと同様に不敬なのだ。何故なら、いずれの場合でもある時に神々はいなかったということになるだろうから、と。」(『弁論術』アリストテレス)[1]

神々は生ずることもなければ死ぬこともないのであり、アルケーが不生不滅であるようなものである。

「…神が一つで、非物体的なものである…」(『雑録』クレメンス)
「…彼は全宇宙に注目しつつ、この一つが神であると言うのである」(『形而上学』アリストテレス)

ここにおいて、神は人格を超えて物体を超えることになり、宇宙そのものとなり、不生不滅的性格が得られることになる。一種の汎神論である(仮に「古代的汎神論」と呼ぶ)。なお、クセノパネスは人間が自分たちの姿を神々に投影させて神々を人格化させた、とも述べていることも指摘しておこう。

さて、クセノパネスは古代的汎神論を唱える一方で、元素論にも打ち込んだ。彼によれば、土と水とが万物の元素である。

「凡そ生じてきて成長する限りのものは土と水とである。」(『アリストテレス自然学の注釈』シンプリキウス)[1]
「何故ならわれわれ凡ては土と水とから生じてきたからだ。」(『諸学者論駁』セクストス・エムペリコイ)[1]

では、何故クセノパネスは元素論と汎神論とを唱えることになったのであろうか。私の意見では、クセノパネスにおいてアルケー概念が分化したように思われる。アリストテレスによれば、アルケーには以下の三つの特徴がある。

(1)万物が生じて来るところのものであり、かつ万物が還るところのものである。
(2)万物の不生不滅の元素である。
(3)万物を統御する原理である。

クセノパネスにおいては、この三特徴が分化している。正確に言えば、(1)(2)は土と水が担い、(3)はクセノパネスの神の手に委ねられ、この神の統御的原理は神の双肩にかかることになる。タレスからアナクシメネスまでは三者は一体であったが、クセノパネス(とヘラクレイトス)において、これら三者が分離分化し始めるのである。以下に神の統御的原理性を表すクセノパネスの言葉を紹介する。

「〔神は〕全体として見、全体として考え、全体として聞く。」(『諸学者論駁』セクストス・エムペリコイ)[1]
「しかし〔神は〕労することなく心の思いもて凡てのものを揺り動かす。」(『アリストテレス自然学の注釈』シンプリキウス)[1]

かくして、(1)回帰性や(2)元素的性格は土と水がその役割を担うのであるが、(3)統御的原理に関しては、アルケーから宇宙そのものたる神の手に移り行くのである。こういうことから、エレア学派の汎神論的ともいえる特徴はクセノパネスあたりに始まり(クセノパネスはかのパルメニデスの師とされる)、同時にこの汎神論と元素論とに分岐する三叉路にクセノパネスは位置する、と言えるのである。かくしてミレトス学派とエレア学派との間にネットワークが形成されるのであり、古代ギリシアの諸学派はクセノパネスの自然哲学を経由して互いに内的に交通することになるのである。

[1]『初期ギリシア哲学者断片集』山本光雄訳編 岩波書店
[2]『ソクラテス以前の哲学者』廣川洋一 講談社学術文庫


後書き
自分で書いてみて、いまひとつわかりにくいものであったことよ。

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