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不変の発見(2)

不変とは変らぬことである。不変は世界の部分たる一つの物体にあり、同じく世界の部分たる一つの現象にあり、さらには世界そのものである全体にもある。古代の自然哲学者が見出したのは、これらの不変である。そして不変であるということは、以前に存在したものがいまも存在することであり、これからも存在することである。これを一名「保存」とも呼ぶ。不変性の発見とは保存則の発見でもある。

不変は世界の部分たる一つの物体にある。この物体が元素であり、例えば水であり、空気であり、あるいは火や土である。タレス的世界観に従えば、水が土や木になり、いずれ土や木は崩壊するが、そうなると再び水へと還るのであり、水それ自体は決して崩壊しない。この水が不変的元素である。アナクシメネスは空気、ヘラクレイトスは火、クセノパネスは水と火、アナクサゴラスは種子、そしてデモクリトスは原子こそ不変的元素であると考えた。自然哲学者諸子は不変性すなわち保存性を見出したのであり、おそらくはこの不変から自然界を鳥瞰しては哲学を学として確立したのである。

不変性は世界の部分たる一つの現象にもある。ヘラクレイトスは次のように言う、「火の転化。まず海、次に海の半分は土、その半分は雷光。…土は溶ければ海、そして計れば、以前それが土となる前にあったのと同じ割合になる」[1]と。この文は少々わかりにくいが、搔い摘んで言えば、土は土になる以前のものと割合としては等しいということになろうか。土になる前のものと土とではその総量は不変なのであり、これは一種の質量保存則である。

不変は全体たる世界そのものにも見いだされる。このようなことを考えたのはメリッソスとアナクサゴラスである。メリッソスは不変を一物体にではなくて世界そのものに拡大する。存在するものは一であり[2]、「何ものも附け加わらず、また何ものも滅び去りもせず」[3]、というので、これは一なる全体の不変性であり保存性である。すなわち、一なるものとしての世界全体の不変性保存性である。

アナクサゴラスはといえば、彼の考えに従えば、世界には元素として無数もの種子が存在しており、これらの混合と分離により表現上は生滅が起こる、とする[4]。そして「これらのもの〔種子〕が以上のような仕方で区別し出された後で、その凡てのものは〔その以前の数よりも〕少くもなければ、多くもない…、むしろ凡てのものは常に等しいということを認識しなければならぬ」[5]というのであり、ちょっと読み取りにくいところではあるが、これは多なるものとしての全体の不変性すなわち保存則ではなかろうか。「凡てのもの」は世界全体の存在であり、従って種子の総数であり、その数がある時点で考えれば、その前の時点と比べても総数に変化はないことになる。これは種子の総数の不変性であり、保存性となると考える。これは多なるものとしての世界全体の不変性保存性となろう。

メリッソスは一なるものとしての世界の不変性を唱えたのに対し、アナクサゴラスは多なるものとしての世界の不変性に言及した、と言えそうである。



[2]『初期ギリシア哲学者断片集』山本光雄訳編、118、DK.30B6
[3]同上、119、DK.30B7
[4]同上、147、DK.59B17
[5]同上、147、DK.59B5

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