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私の世界が無になった日

コロナにかかると、やる気と体力をものすごーい勢いで奪われるというが、本当だった。

ある日、風邪を引いても熱の出ない私が発熱した。
熱は38度超えることはなかったが、頭痛がすごい。
顔の骨格まで痛い。
その上、インフルエンザ以来のなんともいえないダルさに包まれる。
まったく眠れない。
ウトウトするも、また痛みに起こされる。
私は、一晩中、ただただ健やかに眠らせてくれと願った。
病気なんだから健やかにというのもおかしいが。
数時間して、その願いは叶わないと分かると、急速にすべてがどうでもよくなった。
なんだか分からないけど、そんな境地になった。

2日目。
熱は相変わらず維持しつづけた。
頭痛もしかり。
ダルさもしかり。
睡眠状態も改善せず、ウトウトを繰り返す。
相変わらず、すべてがどうでもよかった。
別に戦う気もないが、痛さやダルさに抵抗しても仕方ないとでもいうように、全体的に戦意を失うみたいな、そんな感覚。

3日目。
熱は相変わらず維持しつづけた。
頭痛もしかり。
ダルさは少し和らいだものの、夕方くらいから腹痛が加わる。
これが思いのほか鋭いものだった。
ここまでくると、すべてどころか、「世の中どうでもいい」という心境だった。
頭痛とダルさ、さらにトイレと布団の往復を繰り返しているうちに、生きてるだけでありがたいと思えるようになってきた。

4日目。
朝になりお腹が落ち着いてきた。
この日から何かを食べたいという欲が無くなった。
ここまでくると普通は、「私、大丈夫か?」と思いそうだが、きっとそれでいいんだろうという、謎の確信みたいなものに包まれる。
食べることが大好きで、ついこの間まで、「IKEAのローストビーフが美味かった!!」とThreadsに呟いていた私が、「食べたいもの?それってなんですか?」くらい、なーんにも興味が無い。

こんな風に、自分の周りも心の中も静かなときこそ、私は私に聞いてみたくなった。
「なんでこんなにも心が動かないのだろうか」と。
どこからともなく聞こえた声は「飽きた」だった。
何に飽きたのか。
考えるのが怖くなってその言葉を無視した。
(自分で聞いたくせに)

私は、よく○○は○○よりマシだ。
と、自分を慰めることがある。
痛みに関してもそうだった。
でも、今回、両方いっぺんに体験したことで、頭痛も腹痛も選べないほどしんどいことが分かった。
こういうとき、お産の痛さが出てこないのが不思議だが、きっとお産は日常的にするものではないとの認識が自分の中にあるからだろう。

痛みから少し解放された私は、やっと病気の気晴らしをする気になった。
前から観たかった、Netflixの番組『Light House』を観ることにした。
星野源とオードリー若林の対談番組だ。
しばらく観ていると、先程私が無視した「飽きた」が、星野源と若林の口から飛び出した。
その言葉は、無視できない案件だったのだ。

そして、思い出した。
これは私の性質だった。
向かう先が見えなくとも、今の何かが飽きたということは、次の何かへという衝動がやってくる。
私のいたい世界はここじゃないとなると、突然それまでのことをやめる決心をし、新天地へ向かう。
これを繰り返してきたことを思い出した。

思考の私が考える「安定」を失うことの怖さを尻目に、行きたい方へ行く私の中の何か。
その度に新天地でドキドキしている私なんか知らんぜよ、とでもいわんばかりにイケシャーシャーとやってのける。
なぜ、痛みに苦しんでいる最中にそんなことをいいだすのやらと、絶句した。

5日目。
私の未体験ゾーン「食べる欲が無くなる」という体験は、一日で終わった。
何か残念な気もする。
が、しかし次なる未体験ゾーンがやってきた。
匂いがしない。

家には猫どのがいる。
そのため、どんなに私が病に倒れようが、お世話することは無くならない。
這ってでもトイレ掃除はするし、ごはんはあげる。
今日のトイレは、いつもより臭わない。
と思いつつ、自分の鼻を疑うことなく、手を洗い、ほうじ茶を飲んだ。
不味っ。
あれ?お茶の香りがしない。
トイレに直行して、芳香剤の匂いを嗅いでみた。
まったく匂わなかった。
昨日までは匂いは感じてたはず。
アレは、突然やってくるんだということを知る。

そして、このとき、私は初めて「コロナ」にかかってたことを知るのであった。
それまで、随分と重い風邪を引いてしまったもんだなぁと、痛みやダルさを受け入れていたのであった。

でも、このおかげで、私は私というものを過信しなくなった。
体の偉大さを知ったのだ。
私ごときが、体をコントロールできるなんて思ってたことがおこがましい。
傲慢だったと。

私が病床中にできたことは、水分を体に与えることだけ。
薬も鎮痛剤くらいしかなかったので、しんどいときに熱を下げるくらいしかできてない。
けれど、体の中ではウイルスを外に出そうと、誰に言われるわけでもなく一生懸命、細胞たちが働いていた。
(アニメ「はたらく細胞」は、まだ観たことがないが)
そう思うと、「体は凄いな」と思わざるおえないのであった。
ほんと感謝だ。
ありがとう。

「飽きた」については、まだ答えは出ていない。
とにかく、すべてにおいて「やる気」というものを失っているということは未だ変わらない。

でも、その中で1つわかったことがある。
私の中で変わらないもの。
それは、本を読むということ。
やる気がなくなっても、続けようと思わず続けていたことだ。
私にとって、本を読むということは、誰かの脳内を回遊できる唯一の「遊び」なのかもしれない。
気晴らしに映像物を観ることが出来たのも、きっとコレが理由だろう。
そんなことを思いながら、今日も私は、星野源のエッセイを読むのであった。

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