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ダサさは私の敵?

「誰かに嫌われないように」

このような行動をとるのは、自分が「嫌われるかもしれない人間」だということを知ってるから。

等身大の私は、否定的で批判的。
世の中に向かって毒も吐く。

思い返せば、幼稚園のとき。
隣の男の子と手を繋いで歩かなければならず、その子のことがどうしても嫌で、ちゃんと手を繋がなかった記憶が蘇る。
なぜ、その子が嫌だったのかは分からない。
それは、記憶にない。
いじめっ子だったのか、
はなたれ小僧だったのか、
カッコ悪かったのか、
それともセンスが悪かったのか。

「なぜセンス?」と思うが、小さい頃から「ダサい」ことが嫌いな子だった。
お父さんがだらしない格好などしていたら、それだけで嫌いになった。
(私の蛙化現象は既にこの時から育っていたのか?)

とにかく嫌だったという記憶は、当時の写真からも伺えるのだ。
何だか小馬鹿にしているような目線を送っていたりして。
人の好き嫌いも激しかったと思う。

こんな私を、少し成長した私は、常に隠そうと努力に努力を重ねたのだろう。
目の前に自分のような子が現れる度に、「あの子みたいにならないようにしよう」と心に誓う。
そうやって自分を律する習慣は、乙女座の月っぽい。
乙女座月の私が積み上げた、「人から見て大丈夫な自分」。
この自分は、常に否定したり、批判したり、小馬鹿にする自分を世の中から排除していったのだ。

今ならその声が聞こえてきそうだ。
「だって、お友達に嫌われたくなかったんだもーん」と。
確かに、等身大の自分を公に公開していたら、嫌われていただろうと思う。
(出ちゃってた節もあるが)

でも、だいぶ大人になって、外にお披露目されないまま隠された等身大の自分が声を上げ始めた。
今ならこの理由もわかる。
確かに、最低な自分かもしれないけど、自分だけは「最低な自分も許してあげてもいいのでは?」と思う。
理解して欲しいのは、他の誰でもなく、自分自身なのだから。

ここまで書いていて気づいた。
絶対的に「ダサい自分」になりたくなかったんだ。
どんなだけ、おしゃまな子供だったんだ。

【ダサさは私の敵】

このくらいの気概があったのかもしれない。
このおかげで、どれだけ蛙化してきたことか。
(過去に出会った男性に謝罪をしたい)
よく旦那に言われた言葉を思い出した。
「お前、何様?」
ほんとに何様だよ!!

何がダサくて、何がダサくないのかは、私の感性が決めているので、ファッションだけにとどまらない。
私にとって見た目や、仕草みたいなものは、相当大事だったのだと、振り返ってみて気がつく。

あああ、書くことって、ほんと自分を炙り出す行為だね。
ちゃんと着地したのかは疑問だけど。笑

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