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ヤングケアラーへのまなざし | #10

▼前回の話はこちらから

ヤングケアラーに関する文章を複数回に分けて投稿してきたが、この投稿が最後だ。

私は、私が抱えてきたような悲しみや苦しみが、いまの子どもたちに繰り返されてほしくないという思いがあってこれを書いた。私の経験上、精神疾患や精神医療に関する話が中心となったが、精神疾患を抱える人が年々増加するなかで、私のように悲しんだり苦しんだりする子どもはいまもいるだろう。

なぜ、子どもがケアをせざる得ない状況になっているのか、それを生み出している社会の歪みは何かということを考えていかない限りは、ヤングケアラーにおける問題は根本的には解決していかないだろう。子どものしんどさだけではなく、親などケアの対象が抱えるしんどさや社会の歪みにも目が向けられてほしいと思う。


最後に、ヤングケアラーへのまなざしについて述べたい。ここまで読んでいただいた方は、ヤングケアラーという言葉にどのような印象を抱くだろうか。澁谷智子の『ヤングケアラー わたしの語り 子どもや若者が経験した家族のケア・介護』のまえがきにある文章から考えてみたい。

「ヤングケアラー」という言葉は、子どもの側がケアしていることにのみ焦点を当て、親が自分をケアしてくれている面を見えにくくする。親は、病気や障がいがあっても、あるいは、自ら介護者としてギリギリの状態まで追い込まれていたとしても、子どもをケアしているところがやっぱりある。それに、当然のことながら、親子の関係は、ケアをする/されるの範囲を超えて、お互いに大きな影響を与え合っている。そういう親子の関係を、子どもがケアをしていたという一点をもって、非常に単純化して見せてしまう構図が「ヤングケアラー」という言葉には潜んでいるのだ(p.5)。

私のヤングケアラー経験についてもそうなのだが「子どもの側がケアしていることにのみ焦点」が当たっている。しかしながら私は、両親や兄、祖父母、親戚、友人やその家族、学校の先生、ほかにも今回の文章には書ききれないくらいたくさんの人からケアされている。

また、ヤングケアラー経験だけが私の人生ではない。ヤングケアラーとはまったく関係のないところで、うれしいことや悲しいことがたくさんあった。

「子どもがケアをしていたという一点をもって、非常に単純化して」ヤングケアラーを捉えるのは、ヤングケアラーはかわいそうといったイメージを生みかねない。何よりヤングケアラーがかわいそうだと思われることで、当事者が声をあげづらくなってしまうのではないだろうか。



#1の冒頭にも書いたことだが、ここまでヤングケアラーという言葉を多用しながら書いてきたことに、正直なところ抵抗があった。それは、一人ひとりの経験や感情はとても個別的であるにも関わらず、しばしばヤングケアラーという言葉を主語にしてそれぞれの大切なものを一括りにしているような違和感をもったからだった。

ヤングケアラーという言葉の前に個があるし、ヤングケアラーであるかどうかに関わらず、すべての子どもの生活が守られる必要があると思っていることを改めて記しておきたい。


まだ書き表す言葉がないために書けないこと、またあえて書かなかったことなどもあるが、こうやって言葉を紡いで文章にできたことは、私ひとりの力ではできなかったことだ。

言葉がなかった、あるいは言葉があってもそれを表に出せなかったときのことを思い返すと、こうやって文章にできたことは、大げさかもしれないが奇跡のように思えている。この文章には私が受けたやさしさが詰まっている。


助けていただいた一人ひとりに深く感謝しています。

ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。

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