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羽化

小学生ぐらいのころ、夜ご飯を食べながら見ていたテレビで「セミはさなぎのなかでどうなっているか?」というクイズが出て、その答えが「一度ドロドロになって、成虫の形になっていく」だったとき、あまりの気持ち悪さに、ご飯の続きが食べられなくなったのを覚えている。
クイズの答えが正確なのかは正直わからないし、軽いトラウマなので調べたくもない。知っている人がいても、一旦教えないでほしい。心の準備ができていない。

ChatGPTに衝撃を受けて1年ちょっと、PerplexityのアプリをiPhoneに入れてほぼ1年が経つ。自然な日本語のように見えてどこか機械くささがあるのが生成AIの文章で、「そういうものだ」と思って1年以上使ってきた。単なる情報としては十分だし、ケースによってはむしろ人間よりも正確である可能性すらある。でも、ChatGPTで何かの記事を書くのはやりたくなかったし、読んだらわかるだろと思っていて、実際、最近目にする文章にはそういうのが増えているなと思っていた。案外気付かないものなのだろうか。

ところが、最近使えるようになったClaude 3というモデルでは、出力される日本語の機械くささがかなり薄くなっている。人っぽさがある。だからついに、私が書かないといけない文章を書いてみてもらおうと、半日の講演をかなり詳細にメモしたテキストをClaudeに渡して、「講演の参加レポートを作って」と頼んでみたのだった。

そうして出てきたレポートは、かなり人が書いたような感じだった。というより、「私が変に意識して自分を消して書いたイベントレポート」に近かった。というのも、講演の内容は網羅して文字に起こしつつ、自分自身が着目したポイントは目印をつけておいたし、なんならその目印の意味も、先のテキストと共にClaudeに渡していたからである。

私という主語が消えつつ、私が見てきたことを語る文章。ところどころ機械っぽさがあり、私が使わない言い回しも含まれていたけれど、かなり、自分が書いた感じがあった。感動した。すごく感動した。感動したけど、ちょっと悲しかった。

自分の文章のアイデンティティだと思っていたものは、構成や表現にあったのではなくて、その前のメモ時点だけにあるものだったのか?
私が見たもの、聞いたこと、感じたこと、考えたことを総じて噛み砕く「さなぎ」的な工程のあとに、この軸だ、と決めて再構成して一つの文章に羽化させていく工程こそが、自分が得てきた文章の書き方だと思っていたのに、あれは、AIに可能な計算だったのか?
というか、その文章にあるのは私らしさでもなんでもなくて、可能性が紡ぎうるただの言葉の連鎖だったのか?

そういう疑問が頭をかけめぐったあと、やっぱり自分でキーボードを叩くことにした。だって、私は、書くことが好きだからだ。文字、文章という表現方法が好きだからだ。楽しいからだ。

面倒なことや不得意なこと、理解が追いついていないこと、猛スピードでやってしまわないといけないことは、AIに任せて勝手にやってもらいたい。ただの情報を整える作業はぜひともお願いしたい。でも、私が楽しんでいることまで、渡さない。私が羽化させたいことは、自分で書くんだから。

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